煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク2 八王子編2 長沼煉瓦工場

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明治時代、煉瓦と鉄道は切ってもも切れない関係にあった。
鉄道を敷設する際に、煉瓦はなくてはならない資材だったのだ。
橋脚になり、トンネルになり、駅舎になりと煉瓦は大活躍している。

甲武鉄道は、1889年(明治22年)4月に新宿⇔立川間が、同年8月には立川⇔八王子間が開通した。
甲武鉄道の建設を当て込んで、1888年(明治21年)1月に多摩地域初の煉瓦工場である『日野煉瓦製造所』が操業を開始する。

日野煉瓦製造所で製造された煉瓦は、立川⇔八王子間で使われている。
当時の八王子駅は、現在の八王子駅の北東の東京都立繊維工業試験場跡地にあった。
(日野煉瓦製造製の煉瓦が使われていることが確認できたのは旧八王子駅手前までで、旧八王子駅の構築物に使われた煉瓦が日野煉瓦製造所のものか否かは、現在は土中に埋まっているため確認できていない。)

中央線は1901年(明治34年)に八王子⇔上野原間が開通するが、その工事を当て込んで1897年(明治30年)に八王子煉瓦製造株式会社が操業を開始する。

八王子以西の工事には、八王子煉瓦製造株式会社の製造した煉瓦が使われているというが、詳細はわかっていない。
工場は、八王子市南部を流れる湯殿川の南岸の長沼町に作られたが、『八王子市郷土資料館だより(2007.12 vol.82)』に掲載された工場の写真をみると、大きな建物に高い煙突が2本立っていて、八王子市内からも煙突が遠望できたという。(写真について、転載の許可が出ればアップしたいと思う)

次の写真の住宅街が工場のあった辺りだ。

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前回ご紹介した法(宝)蔵寺から、一同はあぜ道を通って工場跡へと向かった。

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上の写真は、道路の右が干上がった用水路だが、河床にはところどころに赤い煉瓦色の破片が顔を出している。

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ここで、瓦礫の中から何気なく拾い上げた煉瓦の破片には、製造所の刻印と製造者の検印らしき刻印が記されていた。

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どうも耐火煉瓦のようであるが、刻印ははっきりしなかったので、八王子市郷土資料館に持ち帰り、調査研究されることとなった。

ここら辺は煉瓦工場跡地であることから、かなりの煉瓦の破片が土中に散乱しているとのことであるが、あるお宅では掘り出した煉瓦を庭に敷いていた。

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上の写真の中央下やや右よりの煉瓦が次の写真である。

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ディンプルがついていることから、歩道の敷石として使われたものと推定されるが、大きさが変わっている。
ひょっとすると元は正方形のタイルだったのだろうか?

この破片も持ち主のご了解を頂き、持ち帰って調べることとなった。

八王子煉瓦製造株式会社は、その後1907年(明治40年)横浜の『関東煉瓦株式会社』に買収されるが、その後1912年(明治45年)2月には、大阪に本店を置く『大阪窯業株式会社』に吸収合併されてしまう。

長沼の工場では、赤煉瓦のほか、歩道煉瓦や各種の煉瓦を製造していたが、1932年(昭和7年)6月に火災で全焼し、1897年から35年続いた幕を閉じてしまった。

ここら辺を歩くと、まだまだ色々なものが出てきそうであるが、次の目的地へと向かった。

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