煉瓦に関する歴史などを探索、探求しながら現地に赴いたりします。現在に伝わる煉瓦構築物を一つでも多く記録に残し、みなさんと共有していきます。

刻印

 ◆刻印について

刻印の観察は、煉瓦の履歴を探るうえで重要な要素といえます。

刻印は、煉瓦を捏ねて成形したのち乾燥前に押印されたもので、社名や片仮名の『イ、ロ、ハ』や漢数字の『一、二、三』、あるいは『〇印、◎印や二本線』など様々なものがあります。

これらの刻印は、製造所の印や、製造ラインの責任印を表していると考えられていますが、その刻印がどこの製造所のものかわかっているものは多くはありません。

1 旧万世橋駅

2 大阪窯業長沼工場

3 荒川区佐藤病院

4 小菅囚治監

5 開拓使茂辺地煉瓦石製造所

6 日野煉瓦

◆旧万世橋駅

mAAchマーチエキュート神田万世橋は旧交通博物館の跡を再利用したもので、その昔は中央線の万世橋駅だったことは、みんなさんよくご存じのことと思います。

そんな万世橋駅の煉瓦に刻印が観られる場所があります。

現在はmAAchマーチエキュート神田万世橋ができて、神田川沿いのテラスから見えるところにありますが、もし川沿いにテラスが新設されなければ、絶対に観られなかった場所についています。

法隆寺の屋根裏に斑鳩の宮大工が記したいたずら書きが発見されていますが、この刻印もそのような遊び心からこんなにたくさんの刻印の煉瓦を並べたのでしょうか?

刻印の種類は3種類、大文字で大きい『B』、大文字で小さい『B』、小文字の『b』です。

通常煉瓦の刻印は『平(上部の大きな面)』に打たれるものが一般的ですが、この刻印は、『長手(側面の長い面)』、あるいは『小口(側面の小さい面)』についている点が珍しいものとなっています。

◆大阪窯業 長沼工場

大阪窯業長沼工場は、現在の八王子市長沼町にありました。

その工場跡近くでこのような煉瓦を敷石として使われているところがありますので、おそらく長沼工場で焼かれたものと思われます。

表面はディンプルのようなポチポチでおおわれていますが、歩道を煉瓦舗装するために使われた煉瓦と思われます。

八王子市中心部の甲州街道の歩道部分を煉瓦舗装した記録が残っています。

長沼工場の跡は、現在田畑や宅地となっていますが、道を歩くと煉瓦のかけらが散在しています。

そんなかけらの中から、今まで発見されたことのない刻印を発見しました。

この煉瓦は八王子市郷土資料館に持ち帰り、調査研究されています。

次の写真二枚は、大阪窯業長沼工場で焼かれた煉瓦で旧中央線の八王子市明神町付近のカルバートに用いられたもの

「ハ」と読み取ることができる。

これはなんと読むのか判読不能

片仮名の『ニ』、あるいは漢数字の『二』とも読める。

◆荒川区佐藤病院外壁煉瓦塀の刻印

佐藤病院に関しては、構築物をご参照ください。

◆小菅囚治監

小菅での煉瓦製造は1872年(明治5年)までさかのぼる。
明治5年に起きた銀座大火により、銀座の不燃化計画が発端となり、西洋化の波を受けて大量の煉瓦供給が必要となり、民間人の手により『小菅煉瓦製造所』が設立される。

その後1878年(明治11年)に小菅監獄(後の東京囚治監小菅刑務所、現東京拘置所)が設置されると、翌明治12年に政府が小菅煉瓦製造所を買い上げて、小菅監獄の中で煉瓦製造を始める。

刻印には桜のマークが使用されているが、花弁の数や大きさに数種類あり、すべて小菅監獄で作られたものかどうかは特定できていない。

◆開拓使茂辺地煉瓦石製造所
先日NT氏が函館まで遠征し煉瓦工場跡を訪ねてきたので、その際工場跡で発見された刻印をアップする。
以下写真はNT氏提供

開拓使唯一の官営煉瓦製造所として明治5(1872)年に創設され、同13(1880)年末に閉鎖、その後民間に払い下げされた。
(『はこだて歴史散歩』より転記)

 

ここの煉瓦で函館市周辺の多くの建物が建てられた。

◆日野煉瓦

中央線の建設が西進するとともに、立川から八王子の区間に煉瓦を供給するために、日野市日野に煉瓦工場が作られた。

甲武鉄道は、1889年(明治22年)4月に新宿⇔立川間が、同年8月には立川⇔八王子間が開通した。
甲武鉄道の敷設に煉瓦を供給するため、1888年(明治21年)1月に多摩地域初の煉瓦工場である『日野煉瓦製造所』が操業を開始する。

日野煉瓦製造所で製造された煉瓦は、立川⇔八王子間で使われている。

 

 

 

 

 


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