煉瓦研究ネットワーク東京。煉瓦に関する歴史などを探索、探求しながら現地に赴いたりします。現在に伝わる煉瓦構築物を一つでも多く記録に残し、みなさんと共有していきます。

構築物

◆煉瓦構築物

煉瓦は建物以外にも、隧道、橋梁、高架橋、塀など、様々な用途に用いられました。
このカテゴリーでは、建物以外の煉瓦構築物を取り上げます。

1佐藤病院外壁

2西表島宇多良炭坑煉瓦遺構

3墓に用いられた煉瓦

4新永間市外線高架橋

5八ツ沢発電所導水路

6観音崎第二砲台通路

7門ノ前橋梁(ねじりまんぽ)

8狼川橋梁(ねじりまんぽ)

◆荒川区佐藤病院外壁

佐藤病院の煉瓦塀の特徴は焼過煉瓦を用いて、外側を綺麗に仕上げている点だ。

裏側は普通の煉瓦塀になっている。

焼きしめられている側はそうでない側に比べて数ミリ小さいことから、綺麗な直方体ではないため、まっすぐに積み上げるにはかなりの技術が必要だったと思われる。

この煉瓦塀には、次のような刻印を観ることができる。

この刻印の「山本」の文字から、近くにあった山本煉瓦工場で製造された煉瓦だとわかる。

◆西表島宇多良炭坑煉瓦遺構

西表島にある宇多良炭坑は、かつて沖縄県唯一の炭鉱だった。
西表島での採炭の歴史は1886年(明治19年)までさかのぼる。

5西表島宇多良炭鉱

西表島宇多良炭坑 NT氏撮影

ここ宇多良炭坑は、1936年(昭和11年)に丸三炭坑宇多良鉱業所として開坑された。

ジャングルを切り開いて、坑夫の宿舎や集会所、食堂、売店などが建設された。
最盛期には数百人が働いていたといわれる。

太平洋戦争が始まると、石炭輸送が困難となり、1943年(昭和18年)に操業停止した。
2007年には日本近代産業遺産群の認定を受けている。

◆墓に用いられた煉瓦

1 八王子市長沼
煉瓦工場に関係する人々の墓は、煉瓦を用いて作られることが多い。
次の写真は、八王子市長沼にあった煉瓦工場(後の大阪窯業長沼工場)の工場長の墓である。

墓の基壇部分に焼過煉瓦を使っている。
上面には化粧タイルが貼られている。

2品川区東海寺大山墓地
耐火煉瓦というと品川の白煉瓦が有名であるが、その技師の墓が品川区北品川にある東海寺の大山墓地にある。

墓地の周囲を煉瓦で囲い、墓石は煉瓦によく似あった色合いのものが使われている。

3八王子市明神町福田寺
福田寺の墓所には立派な煉瓦タイルを貼った墓所がある。

1910年(明治43年)八王子に設立された煉瓦製造販売、煉瓦工事土木建築工事請負業の創業者の墓所である。

裏側に回ると、銘板の上の意匠をこらした模様が素晴らしい。

この墓のすぐ近くに、もう一つ注目すべき墓がある。

基壇と背後の塔婆を立てる部分に煉瓦が使われていて、墓の前にはモザイク模様にタイルが貼られている。

この墓の由来は判明していない。

 

 

◆新永間市外線高架橋

1900年(明治33年)に建設の始まった高架鉄道は、当時東新橋界隈を『新銭座』、大手町付近を『永楽町』と称したことから『新永間市外線高架橋』と呼ばれた。1889年(明治22年)に新橋、神戸間が開通した官設鉄道と、1883年(明治16年)に上野、熊谷間が開通した私鉄の日本鉄道を結ぶものだ。

 

上の写真は新橋駅前のSL広場・・・と聞いても誰も疑うものはいないだろう。
実はこの写真はベルリン市街高架鉄道である。

ドイツ人のヘルマン・ルムシュッテルはベルリン市街高架鉄道をモデルに計画すると、ベルリン市街高架鉄道の建設に携わったフランツ・バルツァーを呼び寄せて設計させたのだ。

次の写真は新永間高架橋の内幸町高架橋の半円アーチである。
新永間高架橋で使われているアーチはほとんどが欠円アーチであるなか、唯一ここに半円アーチが二か所存在している。
内幸町高架橋全体が、このような形で焼過煉瓦をうまく使って装飾されている。

◆八ツ沢発電所導水路

八ツ沢発電所関連施設は、1910年(明治43年)に東京電燈(現東京電力)が建設を始め、1914年(大正3年)に竣工した。
この発電所に水を供給するた、
桂川沿いに約14kmに及ぶ導水路が設けられていることを知る人は多くない。

27八つ沢発電所導水路1

27八つ沢発電所導水路2

27八つ沢発電所導水路3

27八つ沢発電所導水路4

27八つ沢発電所導水路5

27八つ沢発電所導水路6

◆観音崎第二砲台通路

三浦半島先端から浦賀水道に入ってくると、東に大きくせり出している岬が観音崎だ。
東京湾要塞の沿岸砲台として設けられた観音崎にはいくつかの砲台があるが、その中から第二砲台につながる通路をご紹介する。

メインの隧道は切石を積んだ造りになっているが、この隧道から枝道が弾薬庫に伸びる通路は煉瓦造りとなっている。

次の写真は、弾薬庫から砲台に砲弾を運搬する揚弾路だ。
この揚弾路はフランス積みになっている。

 

 

◆東海道線門ノ前橋梁(大阪府茨木市)

次の写真は、大阪府茨木市にあるねじりまんぽの構造をもつ『門ノ前橋梁』である。
ねじりまんぽについては、『煉瓦ミニ知識』のねじりまんぽをご参照されたい。

9門ノ前内部南から北.jpg

茨木駅から約1.8km高槻よりの住宅地にある。周辺は閑静な住宅街で、生活道路になっているののか、歩行者、自転車、車の往来は頻繁だ。

ここ門ノ前橋梁は、東海道線が開通した1876年(明治9年)に設置された。

2門ノ前橋梁南側.jpg

近づいてみるとかなりの大きさだ。天井高は約3.2mあり、南側から北側に向けて緩やかな上り傾斜になっている。上の写真は、南側から北を望んだ。

ここ門ノ前のねじりまんぽの特徴は、側壁とアーチ部分の境に斜めの煉瓦の角度に合わせて拉げをつけた迫受石があることだ。

4門ノ前追受石.jpg

まずは外観を観察してみよう。アーチ部分は4重に巻かれている。一般的には34重が多いといわれている。中に入ってみると、迫受石が見事な幾何学模様を作ってる。

次の写真は南側から見たところだ。

3門ノ前橋梁南側.jpg

対して次の写真は北から見たところ。北側は南側にはない煉瓦の翼壁が付いている。
隧道に向かって左手は煉瓦の翼壁だが、右側は後日の改修なのかコンクリート造りの壁になっている。
アーチ中央部分に生えている羊歯は、まるで正月のお飾りのようにも見える。

6門ノ前橋梁北側.jpg

次の写真は、拉げをつけた迫受石のアップだ。しっかり計され尽くして、加工されたのだろう。先人の苦労が偲ばれる。
5門ノ前追受石.jpg

ここでこのねじれの起角(側壁とアーチ部分の煉瓦の角度)を測ってみた。
今回は近くの100円ショップで分度器、定規、タコ糸、両面テープ等を用意し、こんな原始的な傾斜計を作ってみました。(後日ふと思い当りスマホで「水準器」と検索したら立派なアプリを見つけたのには、なんでこの時に思い当らなかったのかと後悔しきりだった。)

10手製傾斜計.jpg 

 11アプリ傾斜計.jpg

数か所を計測した結果、起拱角の平均を10度とし、これを公式に当てはめて計算すると、斜架角は約75度となる。

    tanβ=2/(π tanθ)・・・詳細は前回をご参照ください。

次に地図から測った斜架角は81度となり、同じく起拱角を計算すると約5.8度となる。
この結果この隧道のうずまきは、理論値より多少強く渦巻いているということが言える。

 

12斜架角2.jpg

スマホのアプリを使って測定していれば、もう少し正確な結果が出せたかもしれない。

迫受石の上に積まれた煉瓦は、小口、長手の他、長手と小口の中間の長さの七五分の煉瓦を使って、煉瓦と煉瓦の間の縦の線が上下でずれるように、さらに一段おきに揃うように考え抜かれて積まれている。

 

8門ノ前内部北から南.jpg

 

◆狼川橋梁

ここ狼川のねじりまんぽは1890年(明治23年)、東海道本線開通時に作られたものだ。
当初線路は天井川の下をくぐり抜けるように作られたが、現在は川の上を通過している。

21狼川橋梁3.JPG

ここのねじりまんぽの珍しい点は、出入り口のみ屈曲している点だ。
このようなものは、全国で2例しか知られていない。

15狼川.jpg

もともとねじりまんぽは、隧道が鉄道と斜めに交差するために、トンネルの強度を考えて線路と直交するように煉瓦を積んだ結果、隧道の中から見ると渦巻きを巻いているように見えるというものだが、「ねじらなくてもあまり強度には関係ない」という学説もある。
なぜ出入り口のみねじって、トンネルの中間は普通に積んだのだろうか?

国会図書館にある明治時代の翻訳書『斜架拱』などを参考に、模型を作ってみた。

image.jpeg

1模型2.jpg

中間部分はあえて短めにして、側壁部分は省略しアーチ部分のみとした。

2模型2.jpg

3模型2.jpg

如何だろうか?
ここはいずれもう一度訪れたいところだ。

21狼川橋梁2.JPG

 


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