2019.11.17
15:00~16:40
川崎市教育文化会館

煉瓦と鉄道

小野田 滋

(青字は記録者追記)(赤字は漢字が不明)

 小野田と申します。よろしくお願いします。

 前回2014年に一度お話しはしていますが、今日はだいたい同じような内容ではありますが、その後のちょっと面白い発見も含めて、今日報告させていただきたいと思います。

 

1 煉瓦と鉄道の関わり

 今日のテーマは『煉瓦と鉄道』ということで、私は鉄道に勤めているので、鉄道の話しとからめて煉瓦のことについて今日お話ししますけれども、まず鉄道と煉瓦というのは、結構かかわりが深くて、ちょっと見にくいですけれども、これは幕末から明治にかけて煉瓦がどこで作られたかという表になっています。

 煉瓦が西洋から日本に入ってくるのは幕末なんですけれども、この表でいくと、だいたい北海道とか関東地方、それから近畿地方、中国、九州ということで、だいたい全国的にぼちぼち幕末の頃から煉瓦の生産が始まっているということになります。

 表だと見にくいんで、これが地図なんですけれども。北海道の函館辺り、東北は阿仁鉱山、関東は東京の周辺何か所か、中部はまだないんですね。この後知多半島とかその辺りで生産は始まりますけれども、幕末の段階では中部地方には煉瓦の生産は入ってきていません。あとは大阪の近辺、特に堺にかけてこの辺りで煉瓦の製造が始まります。

それから九州は、この長崎までですね。この辺りで煉瓦の製造が始まるということで、だいたい造船所とか鉱山とかそういったものがあるところで、そういう工場を作るための煉瓦をですね、ケイバに窯を築いて作り始めるということになります。

 よく煉瓦は外国から輸入してどうのこうのという話があるんですけれども、もうこの時点ですでに煉瓦は全部国産化されていました。耐火煉瓦は別ですけれども、普通煉瓦、所謂赤煉瓦は、もう日本にある材料で、日本の技術で焼くことができたんです。全て日本の製品であるということになります。ただ、外国人に指導してもらわないとですね、出来ないんですね。どうしたかというと、日本は瓦の技術というのがあったんですね。瓦を焼く窯とか、瓦を焼く職人さんをですね雇って、基本的には窯業製品ですから、土と砂と年度を混ぜ合わせてですねモトを作ってそれを窯で焼くという作業は、瓦も煉瓦も同じですから、そういった事で職人さんが外国人の指導を受けながら国産化していくというのが、だいたい幕末から明治の初めです。

 鉄道はどうしたかというとですね、日本で最初の鉄道というのは、明治5年に新橋と横浜の間で開業するんですけれども、この時は煉瓦は使われませんでした。東京の近辺で煉瓦を焼く窯自体もまだなかったということもあって、横須賀とかその辺ではもう焼いていましたけれども、鉄道では煉瓦の窯を作らず石材だけでこういうものを作ったというのが、明治5年の新橋横浜間になります。

 その後関西の大阪ー神戸が明治7年、それから大阪ー京都が明治10年に開業しますけれども、この時にですね、初めて大阪のちょっと南に堺というところがありますけれども堺市にですね、直轄の煉瓦工場を作って、堺から見ると神戸は海をはさんだ反対側ですから、船で作った煉瓦を対岸まで運んだというようなことをやっていました。

 堺の煉瓦工場は、当時の地図にも登場します。これは昔の堺の地図なんですけれども和泉国堺略図という明治初期の地図のちょうどここに煉瓦所と書いてあります。この赤い丸のところですね。これは大体今の場所でも特定できるんですけれども、ここに煉瓦の製造所を作って、でここから船で、ここに船着き場がありますが、ここから船で神戸まで運んで、大阪ー神戸間の鉄道に使ったということになります。

 どんな構造物が出来たかというと、これは石屋川のトンネルという、神戸の市内ですけれども、阪神に石屋川駅がありますけれども、そこに作った石屋川トンネル、日本で最初の鉄道トンネルの1つになります。

 神戸のあの辺りは、天井川が発達していて、これが天井川ですね、この天井川の下を鉄道がくぐらなければいけないというところに煉瓦のトンネルが出来ます。ですから、トンネルもそんなに長くはなく、100m程度の短いトンネルができるんですけれども、作り方は横穴式に掘っていくのではなくて、一回天井川を切り取って、水は掛樋で別のところに回して、その下に煉瓦でトンネルを作ってもう一回土で埋め戻すという作り方で作っています。これは当時の図面です。これはですね、山口県の昔の小郡、今の山口市になりますけれども、そこの町長をやった秋本シュウサクという人が、この工事に携わるんですけれども、その人の遺品にですね、この図面が入っていた。これが石屋川トンネルの断面図です。この赤いところが煉瓦で作ったと言われています。周りはコネ土とコンクリート、モルタルのようなもので防水してトンネルを作ります。断面は単線です。まだ線路は敷いてないんですけれども、ほぼ完成した石屋川トンネルということになります。

 この写真をよく見ると、ここに人が立っています。ここにも上にも人がいます。向こうにも人がいます。これは推測なんですけれども、たぶん人を置くことによって大きさとか奥行きを強調するために人を置いたんじゃないかという風に思います。なんとなく立っているだけではなく、やっぱり意味があって立っている感じがします。

 ということで石屋川トンネルが明治7年に開通するなんですけれども、今どうなっているかというと、こうなっています。現地にはJR西日本かぼこういう石屋川隧道の跡という石碑を建てています。ちょっと墓石みたいな感じです。それからこの上、ちょうど石屋川の土手になります。トンネルはこの辺りにあったはずなんですけれども、大正時代線路を増やすときにトンネルを解体したんですね。そして新しく跨線水路橋を作って石屋川を流した、上を通したという工事をやっているんですけれども、これが解体している石屋川トンネルです。ここにあるのが、多分工事中は水を別のルートに切り回さなければいけないので、その掛樋です。で、これが新しいコンクリートの水路ということになります。で、この下を線路が走るということになります。

 大正時代に石屋川トンネルはなくなってしまうんですけれども、その後さらにこの跨線水路橋も高架工事をやったときに壊してしまったんですね。今はこんな風になっています。これかぜ石屋川の水の流れになります。天井川です。で、この上を今線路がまたいでいます。ですから、今は高架になっています。

 この近くに公園があるんですけれども、そこにこういう記念碑というか案内板が一応立っています。記念碑とそれから案内板ですね。これが現地に行くと立っています。ちょうど真下に多分トンネルがあったはずなんですけれども、ま、とにかく今では跡形もないということで、こういう石碑が立っているだけです。

 鉄道の煉瓦というのは、だいたい明治の初め頃は、工事のある現場の近くに煉瓦の窯を作って、鉄道構造物を作るというパターンを繰り返していきます。例えばこれは釜石なんですけれども、釜石はですね、結構早い時期に鉱山鉄道ということで鉄道が開通します。明治15年だったと思います。そこにいくつかの煉瓦構造物が残っていますけれども、ただ釜石のこの煉瓦をどこで焼いたのかというのは、未だによく分かっていません。こういった構造物だけは今も残っています。

 それからこれもあの、えっと、これもでね、釜石鉄道のトンネルの残骸、トンネルか構造物の残骸じゃないかといわれている煉瓦の塊なんですけれどね、釜石の鉱山事務所の庭にこれが置いております。

 その後鉄道の煉瓦というのは全国に広がっていくわけですけれども、例えばこの碓氷の有名な群馬と長野の県境の碓氷峠の第三橋梁ですね。これは、大阪の上淀川橋梁って新大阪から大阪に行くところの橋ですけれども、そこの橋脚にこの煉瓦が使われたりします。ま、そういったことで、橋の橋脚、それから橋、それから後ろにトンネルが写っていますけれどもトンネル、そういったものが煉瓦で作られることになります。

 

 東京ではあの、この四ツ谷に御所トンネルというものがあります。ちょうど四ツ谷駅の新宿方ですけれども、これが今でも後部鉄道の時代のトンネルが残っています。

 これは大正時代の写真、でこれは明治時代の写真ですね。ここにトンネルを作ってこの後ろが迎賓館です。こっちが学習院初等科があるところで、ちょうど御所の真下ではないんですけれども敷地の脇を少しだけ通っていくので、一応名前として御所トンネルという名前がついています。こっちが四ツ谷の駅ですね。で外濠には水があったんですけれども、今は埋め立てられて上智大学のグランドになっています。

 

 で、まぁ皆さんご存じの東京駅ですね。これが煉瓦ドーム、実際は鉄骨煉瓦造なんですけれども、鉄骨を中に入れてですね、これでフレームを組んであと壁だけ煉瓦で作るという、まぁ、完全な煉瓦構造物ではなく、鉄骨煉瓦造という構造で、この東京駅は出来ています。やっぱりこれだけ大規模な煉瓦建築を作るということになると、鉄骨を中に入れないと、煉瓦だけではなかなかできなかったということになります。(13:39.73)

これが大正3年に完成しますけれども、それが煉瓦の時代の一つのピークというか、絶頂期になります。

 

 こうした煉瓦は、最初は先ほどお話ししたように現場での近くで煉瓦工場を作っていたんですけれども、そのうちですね、やっぱり大きな、大規模な工場で煉瓦を焼いて、であちこちに供給した方が、品質も安定してるし、それからたくさんの煉瓦を生産してコストも安くなるということで、大きな大規模な煉瓦工場ができるようになります。

 

 その代表格がこの日本煉瓦になります。深谷に工場があるんですけれども、これが高崎線ですね。当時は日本鉄道でしたけれども、その深谷からこの専用線が延びて上敷免というところに工場を作るんですけれども、最初に工場を作ってですね、それから専用鉄道が走ります。これは日本の貨物専用鉄道の一番最初だと言われています。もちろんもう廃線になっているんですけれども、廃線跡は、こういうサイクリング道路、あるいは遊歩道として利用されているということになります。

 ちょうど機関車の横に製品としての煉瓦が積んてる写真になります。これはなんかトロッコなんですね。トロッコで工場からここに煉瓦を積んで貨車に積みかえて、全国に出荷するということになります。(15:28.92)

 で、これを実現したのが深谷出身の渋沢栄一さんです。この人は、色々なところで会社の社長をやるんですけれども、地元が深谷市なんで、特別に思い入れがあってですね、ここに深谷市のに良質の粘土もあるし、煉瓦工場を作って地元の産業として発展させようということで、深谷に煉瓦工場を作ります。

 で、これが今の深谷駅です。東京駅のミニチュア版で、中は鉄筋コンクリートなんですけれども、こんな煉瓦のミニ東京駅みたいな駅です。これはちょうど渋沢栄一区さんが一万円札の顔になるそうで、まだなっていないですね、渋沢栄一さんの一万円札を祝う垂れ幕があります。

で、日本煉瓦の専用線は、煉瓦工場を開設してしばらくしてから、あの最初の頃はですね、鉄道ではなくて船で利根川とかあのあたりの河川舟運が当時発達していたので、深谷から船に乗せて何回か積み替えはしなければいけないんですけれども、積みかえていけば、東京まで船で運べるという状況になっていました。ただ船はですね、やっぱり気象条件で船が行けたり行けなかったりすることと、それから途中で小さい船が大きい船にどんどん積みかえなきゃいけないという非常に手間もかかるということと、それから、船が行って、また戻ってくるのが結構大変なんですね。行くのは下っていくだけなんで、楽に行けるんですけれども、戻っていくときには石炭、あの煉瓦を焼くための石炭を積んで戻ってくるんで、ま、それはそれで結構大変だということで、中々その船だけですね、石炭の輸送、煉瓦の輸送というのはできないということで、明治26年だったと思いますけれども、鉄道を引いてそこから煉瓦を出荷するという体制を整えます。ですから、鉄道というのはですね、煉瓦を使う

だけではなく、全国に流通させるというところでもですね、鉄道が非常に大きな力を果たしたと、ですから、煉瓦というのは、鉄道が使って、鉄道が流通させるという、そういった関係にあったということになります。(18:05.33)

深谷の日本煉瓦の専用線はですね、いくつか重要文化財として指定されているんですけれども、例えばこういう橋梁とかですね、煉瓦のアーチ橋とか、それから今日の資料(受付で配布されたもの)にもありましたけれども、ホフマン窯、ちょうど重要文化財で修復工事やっています・・・こういったものが今でも残っています。

こうしてですね、あの煉瓦があちこちの工場でできるようになると、煉瓦の規格というのをだんだんそろえていくんです。最初の頃は、煉瓦の規格って決まってなかったんですね。それぞれの工場で適当に寸法を決めて作ってたんですけれども、まあ大体の寸法は決まっていいるんですけれども、こういうきちんとした縦横何ミリという規格は無かったんですね。で、明治の半ばくらいになると、やっぱりそれじゃあまずいと、あちこちの工場でバラバラに作ってたんですね、まずいということで、煉瓦の規格を統一していきます。ただこれがなかなか上手くいかなくてですね、これはちょっと見にくいですけれども、何代か明治時代にですね、いくつかの規格を決めて、さらに品質も一等、二等、三等ということで決めていくんですけれども、なかなか決定しないという事で、例えばあの大阪の方工場と関東の工場と寸法が違うということが色々あってですね、なかなか統一しようという人と、今のままでいいという人と色々いて、なかなかまとまりません。まとまって、あの今はJIS規格ですけれども、当時はJES(1921年日本標準規格)だったかな、所謂日本の工業規格です。それに登録されたのが、多分大正時代なんですね。そのころになると、煉瓦というのは、もうコンクリートの時代に移っています。時すでに遅しだったんですけれども、とにかく明治の時代はですね、煉瓦の規格というものも一応決めはするんですけれども、中々徹底しなかったということになります。(20:30.50)

 

2 煉瓦の積み方

 煉瓦の寸法ともう一つは積み方ですね。一般的によく使ったのが、イギリス積みです。イギリス積みというのは、一つの層で長手だけ、一つの層で小口だけというのが表に出る積み方なんですけれども、当時の教科書を見ると、イギリス積みというのが一番、まあ同じ層で同じ方向に並んで並べていきますから、非常に簡単に積んでいくことができるのと、強度的にも優れているというようなことで、イギリス積みが基本の積み方になります。これは、トンネルもアーチ橋も、それから橋梁の橋脚とか橋台などそういったものもほとんど一般的に使われます。

ただちょっと珍しい積み方としてフランス積み、長手、小口、長手、小口とツー、トン、ツー、トンと並べて積んだ、これは技術的に比べると強度がちょっとよろしくないんだけれども、美観に優れているという当時は評価でした。これも、あの、よく見ると、何か所かでこのフランス積みというものを、今から紹介しますけれども、使われます。

それから長手だけで積む長手積み、これはですね、あまり使われているようで、実はほとんど使われていません。ただ唯一ですね、このトンネルとかアーチ橋の上のアーチの部分ですね、ここがあのイギリス積みとかフランス積みがなかなかむつかしいので、長手積みで積みます。それから小口だけで積む小口積みというものもあります。だいたいこの4種類、イギリス、フランス、長手、小口という4種類が一般的な廉価がの積み方ということになります。例えばこれは煉瓦のアーチ橋です。ここに線路が走っていてその下にトンネルみたいな下をくぐる用水路、人がくぐったりという通路のアーチ橋なんですけれども、こういうアーチ橋の場合はですね、この側壁のところはですね、これはイギリス積みで積みます。このアーチは長手積みで積んでいます。ですから、この半円になってくるこの境目ですね、そこを見るとあの・・・アーチの部分とそれから側壁の部分の堺というのがはっきり分かります。ちょっと写真では中々見にくいんですけれども、もし現地で確認する機会があったらですね、この積み方が途中で変わります。これをちょっと見ていただければというふうに思います。

 それから建築物はイギリス積みが多いんですけれども、これは、敦賀港という北陸線の敦賀の駅のさらに港に来た方に残っている鉄道の煉瓦造のランプ小屋です。当時客車は石油ランプだったんですね、電灯ではなくて。その石油ランプを保管しておく倉庫としてこのランプ小屋をあちこちに作ります。で、敦賀港にも出来るんですけれども、ここはイギリス積みで、なおかつ厳密なイギリス積み、ようかんという小さい端物を入れて、面をそろえるというやり方を使っています。

 それからこの写真にはちょっと写ってませんけれども、通常の煉瓦の刻印というのは、平という平らな方の面にやるんですけれども、ここは、横に刻印が押されています。それから、フランス積みのアーチ橋というのがあって、九州の鹿児島本線の玉名の方に、もう熊本県に入ったとところですけれども、その熊本と大牟田の間の辺りなんですけれども、そこにあるアーチ橋です。上を電車が走っていますけれども、ここは、ちょっと珍しい作り方をしています。実はですね、横のこの部分、側壁と呼んでますけれども、この部分はイギリス積みでできているんなですけれども、この途中から、アーチのところはフランス積みで出来ています。長手、小口、長手、小口・・・と。

 アーチをフランス積みで積んでいるアーチ橋というのは、私はここでしか見たことがないんですね。かなり珍しいのではないかと思います。

 で、この迫持と呼んでいますけれども、アーチのこの面のところ、ここですね。ちょっと変わっていて、ここが粗迫持といい、長手を単純に積んだ積み方なんです。こっちは化粧迫持という、長手、小口、長手、小口というちょっと手の込んだやり方で積んでいます。ですから、こういう積み方をすると、結果的に中がフランス積みになるということになるんだと思いますけれども、こうしたちょっと手の込んだものが九州に残っています。

 

 このフランス積みの煉瓦というのが、どこにあるのかというのを色々調べてみたんですけれども、結構地域性があってですね、例えば北海道にポツンとありますが、手宮の機関庫とか、北海道庁が有名です。それから旭川の工場の赤煉瓦にも、フランス積みがあります。それから関東にはあまりありません。ポツポツとはあるんですけれども、例えば銚子のあたりにあるセンカミ橋という線路の上の跨線橋みたいな橋があるんですけれども、そことか碓氷峠のアーチ橋にも一か所高欄だけはフランス積みにしたアーチ橋があります。ですから関東はあまりフランス積みは無いと、で、東海道をずっと下って行くと、やっぱり関西の辺りとか、それからこの四国の高松の辺りですね、それから九州の先ほど言った玉名橋梁というフランス積みのアーチ橋がこの辺りにあるんですけれども、九州の熊本と福岡の間の辺りに集中しているということで、なんか関連がありそうなんですけれども、ちょっとまだそれがそれぞれ何をもってフランス積みにしようかと思ったのか、今一つつかめていません。それを指示した技術者がいたのか、それとも煉瓦の職人があちこちの現場を点々とする中で、この積み方を広めていったのか、その辺が実はよくわかっていません。この辺もぜひ研究していただける方がいると助かるんですけれども、少なくとも、こういう特殊な積み方を知って、それをやるという知識を持っている人が少なくともいて、それを広めたことになるみたいですね。それが職人さんだったのか、技士だったのかは何とも言えないんですけれども、そういった形ですね。

 イギリス積みが基本なんですけれども、フランス積みという特殊な積み方もあちこちで広まっていくことになります。全国的に広まっていくんで、何か関連はあったと思うんですけれども、例えば、関東でやった人がですね、北海道に行ってそれを広めたとかですね、あるとは思うんですけれども、ちょっとそこらへんが私も全然つかめていません。

(28:30.08)

 

3 竪積み

 煉瓦の積み方でちょっと面白いのが、堅積みという積み方です。これは常磐線の南千住(南千住駅から上野方向に進み三ノ輪付近)にあるアーチ橋なんですけれども、この迫持の面を観察すると、基本的にアーチは先ほど言ったように長手積みなんで、この粗迫持っていう小口だけが表にでる積み方になるなんですけれども、ところどころにこういう長手が入るんですね。これが粗迫持、竪積みという積み方です。当時の教科書を見ると、これは所謂補強のために入れる煉瓦だというふうに解説しています。この長手積みで積んじゃうと、目がそろってしまうので、あまり強度的にはよろしくんいということで、ところどころ縦方向にも煉瓦を入れて、強度を高めたという技法のようです。

 色々調べると、いくつかの竪積みのパターンがあります。全部これで積むわけではなくて、アーチの何か所かにこれがあります。皆さんも煉瓦のアーチ橋を観る機会があったら、この辺りにも注意していただければと思います。

 それから、アーチ橋・・・煉瓦というのは、基本的にアーチで構造を持たせるというところに一つの特徴があるんですけれども、このアーチの積み方も、色々種類があって、基本は先ほどのアーチ橋もそうでしたけれども半円アーチ、基本的にこの半径が180度でくるっと回るという半円アーチが基本なんですけれども、中にはこの欠円アーチという円を欠ける、欠けた円のアーチ、どういう意味かというと、くるっと180度回らないんですね。途中で180度以下でこう止めてしまうと、ちょっと扁平なアーチを欠円アーチといいます。どういう利点があるかというと、この高さを低くくして無駄な空間を増やさないことと、径間、この幅ですね、これをなるべく大きくするという効果があります。

 全部のアーチ橋ではないんですけれども欠円アーチの場合は、ここに迫受石というアーチの力を受け止める石を入れたりします。それから半円アーチでも使いますけれども、要石ですね。所謂キーストーン、アーチのてっぺんのところに最後に入れる石ですけれども、これが入っているのが特徴です。全部入っているわけではないんですけれども、これが一般的なやり方ということになります。

 例えばこれは、大阪の南海電鉄高野線の大阪府狭山市、あの辺りに残っているアーチ橋です。こちらが半円アーチ、こっちは欠円アーチ、パット見ただけでは違いは分からないと思うんですけれども、こちらはこの円が180度でくるっと回っている、こちらは180度ではなく途中で止まっています。ですから、止まったところで迫受石を入れます。これが特徴です。

 この写真だけでは分かりにくいので拡大すると、これですね、ここが欠円アーチの

アーチ、この石でアーチの軸力と呼んでいますけれども、圧縮の力を受け止めています。迫受石がない欠円アーチというものも、実はあるんですけれども、基本はここに石の層が一つ入ります。(32:54.20)

 

4 ねじりまんぽ

 それから変わった煉瓦の積み方としてよくでてくるのは、このねじりまんぽですね。これはどういう積み方かというと、ちょっと分かりにくいですけれども、上が線路です。これはアーチ橋です。このアーチのところの煉瓦をねじって積むんですね。この写真を見ると、ここれは東海道本線の甲大門橋梁という、大垣の揖斐川を渡った辺りにある橋梁です。中はこの写真じゃ分かりにくいんですけれども、こんな感じですね。側壁がイギリス積みでできていて、こっちは長手積みなんですけれども、長手積みが水平ではなくて斜めに積んであるので、結果的にねじったように見えるというのが、このねじりまんぽです。

ねじって積むんです。このさっきの迫持のところがこんなふうにギザギザになってます。中には面一にしたやつもあるんですけれども、ここの場合は、積みっぱなしということで、結果的にこういう段違いのギザギザ模様になっています。面がこう斜めになっています。

 なんでこんなことをやるかというと、こののじりまんぽがどんなところにあるかということを色々調べるとですね、こういうところにあるということが分かりました。

 これが線路の方向です。上をこう電車が走る、その下にこのアーチ橋があるんですけれども、通常のアーチ橋は、線路に対して直角方向に横断して、下を潜っています。ですから線路に対して直角方向にアーチ橋がその下潜る場合は、普通に長手の積み方をするということなんですけれども、アーチ橋が出来ている場所によっては、斜めに線路を潜っているところもあります。そういうところは、まっすぐに積んでしまうと、アーチの力を受け止めるところが片方が無くなってしまうんですね。

 基本的にアーチというのは、どこかでこの軸力っていうか、アーチに伝達する力をですね、どこかで受け止めなくちゃいけないんですけれども、斜めにすると、これが片方受け止められなくなるということになってしまうんで、煉瓦をこの斜めの角度に合わせて、こっち方向に真っすぐ積んでいくということによって、結果的にねじったような形になるということになります。斜めに横断するアーチ橋というのもですね、いくつかパターンがあって、この入口が線路に平行になっているものと、それからこういう逆に道路の方に対して直角になっているものと、2つあります。この2種類のねじりまんぽというものがあるんですけれども、中にはここにこう三角の、ですから入口がどうしてもこっちとこっちで高さが違ってきますので、こういう形になるということになります。

 こっちとこっちの高さを平行にすると、高さは同じなんですね。このねじりまんぽの展開図は、こんなふうになります。これは、外国の文献を調べるとですね、ねじりまんぽの作り方というのが解説されています。難しい計算をして斜めの角度を決めたりするんですけれども、これが展開図です。これをペロンとこの上に被せると、さっきのねじりまんぽの形になるということになります。

 これがアーチ橋の入口のところですね。ですから、ちょっと図が悪いんですけれども、線路がこっち方向ですね。これが展開図で、これを切り抜いてアーチ型にすると、さっきのようなねじりまんぽができるということになります。アーチの線路と道路の角度によって、積んでく角度が決まっていくとなると、交差する角度ゆるいと斜めの角度ゆるくなり、交差する角度きつくなると斜めの角度きつくするといったような計算の式があります。

 ねじりまんぽというのは、こんなふうにつくってあるのですが、普通の煉瓦をこういう形、斜めアーチをこういうふうに普通の煉瓦の積み方で水平に積んでしまうと、ちょうどこの部分ですね、この部分のアーチの力が橋台のところで受け止められないと、片方がなくなってしまうということで、あまりよろしくないということでこのねじりまんぽというのを使います。

 ねじりまんぽがどこにあるかというのを色々調べると、こんなふうになります。やっぱり多いのが関西です。それから北九州のこの辺りですね。さっきのフランス積みはこの辺りでしたけれども、ねじりまんぽは北九州のこの辺りにあります。北海道にはないですね。それから関東もほとんど無いんですけれども、碓氷峠のところに今は無いんですけれども、昔あったアーチ橋にねじりまんぽがありました。それから今でも残っているのが、新潟のこの一か所です。ここにねじりまんぽが1つ残っています。

 あとは東北地方、北陸地方、それから中部地方、このあたりは、ほとんどないですね。四国もないです。こういった形でちょっとある地域にかたまった技法ではあるんですけれども、これもさっきのフランス積みと同じで、誰かがこの技術を、もともとその技術というのはイギリスの教科書にでてくるんで、イギリスの技術書(Gerge Watson Buck 著『 OBLIQUE BRIDGES』)が多分伝えたと思うんですけれども、それをさらに広めたのは、日本人がやったと思うんですね。この現場で何人か人のつながりがあったのかというふうに想像はしているんですけれども、まだ誰がそういうことをやっていたのかというところまでは、分かっていないということになります。どなたか「我は!」と思わん方がいらっしゃったら、是非解明していただきたいと思います。(40:23.34)

 

5 Ribbed Skew Arch (有肋斜歪穹窿)

 この斜めアーチを色々調べるとですね、ちょっと変わった斜めアーチというのがあります。英語で Ribbed Skew Arch (リブドスキューアーチ)と言って解説されるんですけれども、日本語でなんて読むのか私もわからなくて、ゆがんだアーチと言いますね。この「歪穹窿(ワイキュウリュウ)」というのは、日本語ではこんなふうに書き表わすんですけれども、外国ではリブのある斜めアーチという単語をあてはめています。これはどこにあるかというと、先程紹介した南海電鉄の高野線の高野山に近いところです。そこにですね、南海高野線の大師拱渠(大師第16号拱渠(キョウキョ))という、これが高野線の線路なんですけれども、こういうアーチ橋があります。この南海高野線のアーチ橋は、ちょっと斜めなんですけれども、実はここはねじりまんぽではなく、真っすぐに積んでいます。角度が緩かったんですね。少し、わずかだったんで、ねじりまんぽにわざわざせずに、普通に真っすぐ積んだというのが、この大師第16号拱渠です。遠目ではちょっと分かりにくいですけれども、近くに寄ってみると、このアーチがさっきのようにちょっと段差がついているのが分かります。ねじりまんぽではなくて、真っすぐ積んでいます。ですからアーチ橋は、明らかに斜めアーチなにんですけれども、角度が緩いんでねじりまんぽにはなっていないと、だけど少し斜めにはなっているんで、こう表面がちょっとでこぼこになってしまったというのが、この大師拱渠になります。これは、さっきのリブドスキューアーチではないんです。実はこの後ろにもう一本のアーチ橋があって、それがその構造で出来ています。これが大師アーチ橋です。もう少し拡大すると、この迫持のこのところが、少し凸凹になっているのが分かります。ほんの僅かなんですが、ただ煉瓦自体はねじって積んでなくて、真っすぐ積んでいます。

 さらにこの高野線の橋梁の奥にですね、もう一つ実はアーチ橋があります。これです。これはあの電力会社のアーチ橋です。泉水力電気という後に関西電力になるんですけれども、地元の水力発電をやった会社です。明治44年、1911年にこの九度山発電所というのを作るんですけれども、そこに上の方から水路を、水を引いて、ここで水を落として発電をするわけですけれども、明治44年にこれを作った時に、こういう水路の煉瓦のアーチ橋を下に作ります。先ほどの大師、南海高野線のアーチ橋とほとんど同じ規模なんですけれども、実はこのアーチがさっきのリブドスキューアーチというふうになっています。ちょっと分かりにくいですけれども、アーチが非常に面倒なやり方じゃないかと私は思うんですけれども、真っすぐ積んであるんですけれども、それを少しづつシフトしてずらしていくんです。ちょこっとづつ、ずらしていくということになります。ちょっと写真だけでは説明しにんいんで、ホワイトボードで説明します。えっとですね、ちょっとわかりにくいんですけれどもアーチ橋っていうのは、今のアーチ橋はこんな形になっているんですけれども、これをですね、ここに煉瓦を積んでいくんですけれども、これは正面から見たところですけど、上から見たときにですね、これをですね、一つひとつシフトしていくんですね。一つのアーチの面を積んで、これは上からみたところですけれども、今度はこう、次はこう、次はこう、こうやって一つづつずらしながら、積んでいくということによって、この斜めのアーチ橋を作るという作り方です。非常にこれは一つひとつ型枠を中に入れて、木の型枠を中に入れて、それを外側で煉瓦を積むんですね。非常に面倒くさいやり方だと思うんですけれども、だからどういうふうに施工したのかというのは、今一つよく判らない。まあ、煉瓦の一つの大きさだけでこの型を作るというのも中々大変な作業だと思いますし、逆にこういう型を作っておいてその外側に煉瓦を積んでいくというのも、中々大変なものだと思うんですけれども、モノは出来ているので、何らかの方法でこういったことをやって作ったのが、この九度山発電所の水路橋ということになります。

 こんなふうになります。これがその側壁、こっちがアーチです。わずかですけれどもちょっとづつ、こうずらしているんですね。シフトしながら、あの斜めにジワジワと煉瓦を積んでいくというやり方なんで、これで1つの型枠で積んでいくのか、ある程度別の、一組の型枠で組んで積んでいくのか、そこはなんともいえないですけれども、なんらかの形でこういう組み方で積んだと思います。ですからこういうやり方をやっているんで、迫持のところは平です。さっきのあの高野線の方はギザギザでしたけれども、断さが無い平らなフラットな作りになっています。これがあの外国の文献にも一応このアーチの作り方はでてるんですけれども、細かいところまではでてないんですね。ま、こんな形でアーチの一つひとつをずらしながら作るということでこの斜めアーチを作るっていう解説をしています。

外国の文献では、このリブドスクエアーアーチというふうに言っていて、日本語に訳した時は、このちょっと読めないんですけれども、肋骨が斜めにアーチ状に並んでるという、こういうアーチ橋を紹介していると言うことになります。これは、私が見た限りでは、この九度山発電所の水路橋だけです。

 

6 煉瓦からコンクリートへ

 明治時代はですね、石積みか煉瓦積みを基本として土木構造物、あるいは建築構造物を作っていくんですけれども、明治の末くらいになるとコンクリート構造というのが入ってきます。それによって煉瓦と石材というのは、だんだん使われなくなって、特に関東大震災で煉瓦の建物が非常に大きな被害を受けたというあたりがきっかけとなって、急速に衰えていきます。

 煉瓦の時代に作った代表的な構造物がこの新橋と有楽町、それから東京駅の間にあるものです。これは明治43年に完成するんですけれども、今は東京高架橋と呼んでますけれども、昔の文献だと『新永間市街線高架橋』といいます。『新』は浜松町の『新銭座』という地名ですね。『永』というのは『永楽町』という地名です。新銭座と永楽町の間を繋いだんで新永間といって、ですから今でいうと浜松町と東京駅のちょっと北側の辺りが永楽町というんですけれども、この新永間を結んだ市街線というのは、都市鉄道のことです。煉瓦高架橋ということで、これが完成します。これは場所はですね、こちらは有楽町。この辺りは、ちょっと手前は新橋、これは外濠なんですけれども、今ここは東海道新幹線と首都高速が走っていて、もう外濠は埋め立てられています。ですから、こんなふうには見えません。これも外濠ですね。これもちょっと有楽町に近いところです。これは、この高架線を東海道本線が二線、上り下り、それから山手線と京浜線、当時は京浜東北線ではなくて、横浜までしか行ってなかったんですね。東京と横浜の間だったんで、京浜線と呼んでいたんですけれども、京浜線と山手線の電車がこの二線、ですから複々線でこの線路を作ってました。

 東海道線は途中までしか電化されていなかったので、まぁ蒸気機関車ですね、でこちらのこの線は、これは電車です。まあ1輌だけですけれども、京浜電車線は3輌で確か運転していたと思うんですけれども、あの・・・これは多分ですから山手線ですね。こちら側の外濠の反対側、内側の線路を使って走っていたという事です。で、今こちら側に東海道線の新しい高架橋を作ったんですね。これは、京浜東北線と山手線の線路として使っています。この赤煉瓦の高架橋ですね。ただ残念な事に新幹線と高速道路が出来てしまったんで、このような景色は観られません。ただ高架橋は今でも使っていて、これは現状なんですけれども、山手線と京浜東北線が使っていますけれども、こっちが新橋ですね。ですからこれは、山手線の内側になります。反対側は新幹線が走ってます。でこれが静岡新聞社のちょっと変わった建物、丹下健三の設計なんですけれども、新橋のちょっと手前、土橋の辺り、高速道路の入り口がある辺りです。この手前は、第一ホテルです。この辺りが一番綺麗に残っています。で、まあとにかくこういう赤煉瓦の高架橋を作ってですね、この上に電車を通すというのが明治43年なんですけれども、今でも使っている。ただこの辺りですね、この辺はまだそうでもなかったんですけれども、関東大震災でも大丈夫だったんですけれども、地盤沈下があってですね、それであの高架橋がちょっと変状します。で、どうしたかというと、こう内側にコンクリートとか、それから一部は鉄骨を入れて、補強をして高架橋を支えます。

 これがその図面ですね。上は鉄でこういうサポートを入れています。こっちはコンクリートを内側に巻いて、補強しているということになります。今はこの鉄の補強も内側からコンクリートで巻いてしまったので、この鉄の補強のところは見えないんですけれども、昔はこんなふうになっていました。鉄のアーチ、これは後から入れたんですけれども、赤煉瓦の高架橋を補強するために入れたものです。ですから関東大震災でも東京大空襲でも大丈夫だったんですけれども、地盤沈下はかなり深刻な影響を与えました。もともとこの辺りは地盤はあまり良くない場所だったんで、そういうことが起きてしまったんですね。今はもう補強してちゃんと止まっているんですけれども、それがまあ唯一の想定外という事になります。  ちょうどこれは、日比谷っていうのは、もともと入江になっているんですね。あまり地盤がいいところではないんです。『日々』、『谷』ですから。東京駅の辺りは地盤は比較的に良いんですけれども、やっぱり丸ビルとかですね、それからこの日比谷の辺りですね、この辺りは地盤があまり良くなかったんですね。地盤が良くない所って言うのは、昔から人があまり住んでいなかったはずなんですけれども、そこに鉄道を通したという事で、こういった補強対策が必要だったという事になります。

 この赤煉瓦の高架橋の下はですね、いろいろな使い方をしていました。この写真だと自動車のガレージですね。まああの辺りですから黒塗りの社長が乗る車の待機場みたいに使っていたんですね。今は色んな商業開発して、飲み屋さんとか色々店が入っています。ただですね、高架橋の下を利用するのにあんまり飲食店というのは、昔はやりませんでした。あまり火が出るものを高架橋の下に入れると言うのは嫌がったと思うんですけれども、今は結果的に焼き鳥屋さんとか、飲み屋さんとかありますけれども、基本的にはこういうガレージとかですね、それから、あの・・・倉庫、それから事務所、そういった事に使う当時は目的だったようです。

結果的に色々商業開発されて、商店なんかが入っているという事になります。実は鉄道博物館も、昔はこの高架橋の下にありました。今は大宮に鉄道博物館がありますけれども、あの博物館は何年か前までは、万世橋の赤煉瓦の高架橋の下に博物館があったんですけれども、そのさらに前はですね、大正時代に鉄道博物館というのが最初に開館した時は、今の東京駅のちょっと北の方の赤煉瓦の高架橋の下に博物館がありました。これは、その時の写真です。

 赤煉瓦の高架橋のまさに剥き出しになっている所ですが、その下にこういう模型鉄道とかが昔からありました。鉄道博物館というのはですね、それまでの博物館というのは、とにかく展示してあるものを大人しく観ると、で、展示してあるものも動かないというのが博物館だったんですね。ですから博物館に行ったら、展示物に触っちゃダメとか、色んな制約があったんですけれども、鉄道博物館は、今は珍しくないんですが、物が動くということと、実際に物に触れるというのが一つのウリでした。今はそういう博物館は結構あっちこっちにありますけれども、その走りですね。ですから大正10年に鉄道博物館が開館するんですけれども、そういった動く模型とか、自分で物を動かして、スイッチを押すとなんかこう色んなモーターが動いたりとか、そういったことが出来る博物館というのは、鉄道博物館が初めてということで、当時としては、かなり人気があったようです。今でも人気はありますけれども、当時としては画期的な博物館でした。これも外国に例があるようで、外国に行ったら、向こうの博物館、特に鉄道とか機械の博物館は、色々触れてですね、それを色々操作する事によって、子供達が仕組みを学ぶということが非常に役立っているという事を、帰国してから実現したというのが、この鉄道博物館ということになります。

 こういった形で、高架橋の下を利用しています。これは、鉄道博物館が入っていた万世橋の高架橋です。皆さんご存知だと思うんですけれども、これが神田川です。神田川に沿って中央線の御茶ノ水から神田の方に赤煉瓦の高架橋が残っています。これは甲武鉄道の時代に建設するんですけれども、完成したのは明治40年に万世橋の駅ができて、その時に甲武鉄道は国に買収されて国営鉄道にはなるんですけれども、実は川側のデザインと道路側の煉瓦のデザインが微妙に違います。分かりますかね。川側は、この橋脚のところに石が入ってますね。煉瓦と石を組み合わせています。こっちは煉瓦だけです。万世橋の高架橋というのは、高架橋という『ハシ』という名前は付いていますけれども、橋の構造はここまでなんですね。この部屋があるところまで。これは、鉄道博物館が使っていた頃のものなんですけれども、ここまでは所謂アーチ橋ということで、中は空間になっていたんですけれども、この手前の塞がっているところ、これはですね、中に土が盛ってあります。ですから盛り土式で橋ではないいんですね、高架橋では無いんです。盛り土高架と呼んでいますけれども、この中に土を盛って、外に煉瓦の擁壁を建てて高架橋を作るという構造になっています。ですから、この中はあの部屋としては使えないという事になります。それが万世橋高架橋の特徴になっているんですけれども、とにかく神田川だけですね、この石を嵌めて装飾しているのは。道路側は、それを省略しているというのが特徴になります。真ん中のこれはメダリオンという装飾です。これは川側も道路側も付いているんですけれども、この橋のある所の石ですね、これが神田川だけという事になりますから、まあ多分神田川の景観を考慮して、こういった装飾をしたのではないかと思います。

 この時代まで、明治45年、明治43年の時代の高架橋までは、こういう煉瓦で高架橋を作るんですけれども、その後大正8年にできた東京から万世橋に行く中央線の高架橋が、実はコンクリートでできています。だけど「煉瓦じゃないの?」と思う方がいらっしゃると思うんですけれども、実はこれは表面だけ煉瓦のタイルを貼っています。実際に行くと、ちょうど神田からお茶の水に向かって中央線がカーブを描きながら高架橋をずっと行って、肉の万世のあたりを通るんですね。で、さっきの万世橋の高架橋へと繋がるんですけれども、この高架橋ですね。表面だけ赤レンガを貼ります。中は鉄筋コンクリート構造です。なんでこんな面倒くさいことをやったかといいますと、当時の記録を見ると、新橋の方の赤レンガの高架橋と連続性を持たせたいという事で、わざわざこのか煉瓦のタイルを貼ったようです。ですから表面から見ると、煉瓦構造のように一見見えるんですけれども、実は中は鉄筋コンクリートでできているというのが、この大正8年の東京⇔万世橋間の高架橋という事になります。

 その違いが判るところが実はあります。東京駅のちょっと北になりますけれども、常盤橋というところの架道橋、あの車がくぐるという橋があります。この常盤橋を境にして、東京方と神田方で年代が違います。東京方は明治43年に完成しますけれども、神田方の方は大正8年に完成した高架橋という事になります。ここを境にして材料が変わるんですけれども、たまたまこの上が中央線なんですけれども、もともと中央線はここを走っていたんですけれども、何年か前に中央線を東京駅の上に上げて、重層化してですね、中央線を上にあげた時に煉瓦の高架橋を切り取っているんですね。で、その跡というのは、今でも残っています。その断面を見ると、東京方は全部煉瓦が詰まっています。表面だけ穴あきの化粧煉瓦が貼ってあるという構造が見えます。これは飾りの石積みです。

反対側の大正8年に出来た方は、表面だけ煉瓦タイルなんです。中はこうコンクリートという構造がよく判ります。常盤橋のちょうど南と北、こっちが東京駅になっていますね。こっちが神田の方ですが、違いがここで比較することができます。

 さらに神田の方に行くと、通りに面した方はちゃんとタイルを貼っているんですけれども、反対側は省略されているんですね。コンクリートなんです。コンクリートは打ちっ放しではなく、擬石みたいなですね、ものを塗って仕上げているんですけれども、少なくとも煉瓦タイルは貼っていません。当時の記録を見ると、中央線というのは、今は複線で神田からお茶の水の方に行きますけれども、それを複々線にするという計画がどうも昔あったみたいですね。複々線で東京駅からお茶の水へ出るという計画があって、その複々線の複線だけは作ったんだけれども、将来もう複線を作る時には、この煉瓦タイルというのは必要ないんで、こっち側はそれを付けなかったというふうに当時の工事記録には載っています。ここに行くと片側だけ煉瓦タイルを貼ってあって、片側は何も貼ってないというのがちょうど神田駅を出てしばらく行ったところ、肉の万世の近くで判ります。

 こうしてですね、だんだん煉瓦からコンクリートへ材料が変わっていくんですけれども、鉄道で最初にコンクリートでできた構造物は、山陰本線の島田川暗渠という小さなアーチ橋です。スパンが8mだったかな、ほんの小さい橋梁というより、まあなんかその所謂暗渠なんですけれども、この上を線路が実は走っています。これが日本で最初に鉄筋コンクリートで作った鉄道構造物だというふうに言われています。ただ鉄筋コンクリートの構造物なんで、必要ないと思うんですけれども、迫受の石とか、キーストーンが入っています。これは、模様をわざわざ付けたみたいなんですね。やっぱりあの煉瓦の時代に対する拘りのようなものがあったんじゃないかと思います。

 それから同じようなものが、実は神田の駅にもありました。神田の駅は改良工事で変わっちゃったんですけれども、ちょっと前まではこれが残っていました。アーチがあって、やっぱりコンクリートで出来ているんですけれども、アーチでこういう迫受の石があって、キーストーンが入っているという装飾的なこういう、これはできた時ですね、これはしばらく前の今はもうこれ無くなってます。それから、これは東京から神田へ行く間の中央線ですね。そこにある外堀橋梁という橋梁で、これは煉瓦ではなくて、こっちは煉瓦タイルですけれども、ここは石積みでこう作っている橋になっています。こんな大きな親柱が立っていました。今は切り取ってですね、しばらく前までは東京駅のところに保存してあったんですけれども、東京駅の改良工事でもう撤去してどこかには置いてあるらしいですけれども、今は有りません。ですから今は親柱の無いこういう状態で残っていますけれども、これは表面を石貼りにして、中は鉄筋コンクリートという構造です。これをやったのが、阿部美樹志という人です。この人は建築と土木の両方で活躍しました。これはさらに秋葉原の手前に行ったところに架かっている神田川の橋梁ですけれども、このアーチ橋はもう全部コンクリート、鉄筋コンクリートで作っています。

 だいたい大正時代になるとも、う煉瓦が廃れてこういう鉄筋コンクリートの橋、昔の神田駅なんですけれども、鉄筋コンクリートの高架橋という構造になっています。これはあの昔の神田駅で、向こうが東京駅ですね。こっちが上野です。これは大正14年に開業するんですけれども、東京から上野へ行く敷地です。空地になっていますけれども、ここに東京から上野へ行く高架線、こっちは中央線ですね。実際にあの神田へ行く、これは神田駅のちょっと手前なんですけれども、こういう所謂ラーメン構造で作るんですけれども、ラーメン構造なのに、わざわざこう煉瓦のタイルを貼るんですね。これが非常に珍しいと思います。

 最終的には、これは秋葉原の高架橋ですけど、鉄筋コンクリートですね。これはニコライ堂、こっちはお茶の水で、手前が秋葉原になります。今は周りは電気街になっていますから、こんなふうに高架橋は見えませんけれども、昔は低層の建物ばっかりだったんですね。煉瓦からコンクリートに変わっていくと、構造物の形というのが変わっていきますね。煉瓦は基本的に圧縮する、押し潰す力だけで成り立っている構造で、引っ張ったりねじったりすると壊れてしまうという弱点があります。鉄筋コンクリートは、そういう構造をですね、鉄筋コンクリートとすることによって、ねじっても、引っ張っても頑丈な構造というのを実現するというところが、一つの大きなポイントとなります。煉瓦というのは、圧縮力だけでもたなければいけないので、こういう長いスパンと呼んでいますけれども、長い距離を飛ばして橋を架けようとするときは、どうしてもこうアーチ構造になるんですね。こういう梁の構造にはなりません。平らな床を煉瓦で造るというのはできないんですね。ですから煉瓦で床を造ろうとすると、やっぱり鉄骨とそれからアーチを組み合わせたちょっと特殊な構造を使うんですけれども、要は煉瓦というのは、柱はいいんですけれども、所謂開口部、窓なんかも上をアーチとします。フラットにすることもできるんですけれども、たいていアーチを使いますね。ですから、アーチというのが一つの基本になります。

 鉄筋コンクリートでは、これは梁でもたせる構造ですから、こういうフラットな床が可能になるという事になります。それによって煉瓦の構造物というのは、どうしてもアーチにすると構造物自体がかなり重くなるのですね。地盤が悪いところでは使えないということで、鉄筋コンクリートにして、さらに丈夫な構造で軽く造って、こういったところを渡すということで、鉄筋コンクリートが段々普及していくということになります。

 ただ、鉄筋コンクリートの時代になっても、煉瓦の遺伝子というのは残ります。それがこのコンクリートブロックというやつですね。で、これはどういう構造かというと、コンクリートの単なる塊です。鉄筋は入ってません。例えばコンクリートで四角い塊を作って、それを煉瓦のように積んでいくんですね。コンクリートブロックというのは、今ではもう使いませんけれども、だいたい大正の半ばから昭和の初めくらいに、これが流行りました。とくに、京浜急行の横浜から南、湘南電鉄が作るんですけれども、そこはだいたいこの時期に作った構造物が多いんですね。このコンクリートブロックのトンネルというのが、たくさんあります。なんでコンクリートブロックを使ったかというと、これは煉瓦の代用材で使うんですね。コンクリートというのは、ドロドロの練ったコンクリートを上向きに打ち込むというのは、なかなか難しいということで、まあ今はコンクリートポンプがありますので、簡単に出来ますけれども、当時は手でやってたんですね。それで難しかったということで、昔の煉瓦と同じようにコンクリートでこういう四角い塊を作って、それをれ煉瓦のように積んで構造物を造るということをしばらくやっていました。(1:11:40.08)

 

 

7 煉瓦の発掘

 今度は煉瓦の発掘という話をしたいと思います。今煉瓦は特に建築で使う機会というのはほとんどなくて、装飾とかそれからガーデニングとかそういったところて煉瓦を使うというのはありますけれども、基本的に煉瓦で高いビルを造ったり、橋を造ったりということは、もうありません。とにかく煉瓦というのは今は使われていない材料という事なんですけれども、工事をやると、この煉瓦があちこちから発掘されるんですね。遺跡と一緒で、煉瓦も発掘する時代になてきたんですけれども、まあこれはですね、中央線を建設した時に、中央線の現場の近くに煉瓦工場を作るんですね。その煉瓦工場の跡が、これは清野さんと一緒に行きましたね。これは何か整地をした時でしたっけ。

 

清野氏「いや、うどん屋だとかコンビニだとかを・・・」

 

・・・建てようとしたら、これが出てきたんでしたね。山梨県上野原市なんですけれども、土地を造成したらなんかおかしなものが出てきたぞ、煉瓦がいっぱい出てきたぞという事で観に行ったら、これは四方津にあった中央線の煉瓦工場の登り窯の遺構らしいということが判りました。こんな形で煉瓦が出てきました。これはもう埋めちゃったんですかね。

 

清野氏「今はもう建物が建っています。」

 

ああそうですか、ということで残念ながらもうこういうふうには見れないということで、まあ、これももう20年くらい経ったんですかね。だいぶ前に・・・・

 

清野氏「そうですね、もう15年以上前になります。」

 

観に行ったらでてきた写真です。

 それから鉄道だと、駅の構内をほじくり返すと色々煉瓦が出てきます。これは姫路駅です。姫路駅は、今高架になっていますけれども、その高架の工事をやるときに地面を掘っていたら、何かおかしなものか出てきたと、それで丸い形をしているけど何だろうという事で行ってみたら、どうもこれは転車台、機関車をくるっと回すんですね。転車台という橋梁の一種にはなるですけれども、装置があったんです。機関車をくるっと回す転車台の跡に、この煉瓦を使った遺構が、地面を掘ったらでてきたという事で、これがその煉瓦なんですけれども、これですね。これはまああの本当はこっにもあるはずなんですけれども、とりあえずここだけ掘ったらこれが出てきたという事です。

 それからこれも関西なんですけれども、奈良から大阪へ行く途中に大和川というのが流れています。奈良の方から堺の方へ向かう路線ですけれども、そこに亀の瀬というちょうど山が迫ってきているところです。ですから奈良盆地は、亀の瀬が塞がっちゃうと、昔は湖だったらしいんですけれども、湖になってしまうんですね。そういうところで地滑りが発生します。昭和6年、7年に、これは当時の鳥観図なんですけれども、有名な吉田初三郎という絵師が描いたもので、だいぶデフォルメしてますけれども、こっちが奈良盆地です。で、ちょうど山が迫ったところの間を大和川が流れて、堺の方に流れていくという事になるんですけれども、ここでちょうど地滑りが昭和6年に始まって、この大和川が塞がってしまうという事態になります。で、関西本線 (現在大和路線)は、この大和川のこっちの裏側をずっと走ってきました。で、ここにトンネルを掘って大阪の方に行ってたんですけれども、あの工事をやってる時からですね、なんかどうもここはおかしいと、地質が悪いと、トンネルがどうも変形して全然工事が進まないということで、かなりもう作った時から、あまりいい場所ではないという事が判っていました。ただ、まず強引にトンネルを作って線路を通す訳ですけれども、それが昭和6年にだんだん崩れてきてたんですね。トンネルが潰れてしまうという事になります。最終的にどうしたかというと、こっち側は地滑りでトンネルが潰れてしまうという事になってしまったので、これはもう、大和川の左岸側に線路を切り回さなければいけないという事で、今はこちらの左岸側に一回大和川を渡って左岸側を通って、またもう一回右岸に出るというコースを通っています。ちょうど王寺(三郷)と河内堅上の間です。これは新しい線路ができた時のチラシです。地滑りから10か月目に関西本線(大和路線)難所亀の瀬トンネル開通という事で、新しいトンネルが出来て左岸側を通したという写真になっています。右岸側の古いトンネルがどうなったかというと、こんなふうに地滑りで潰れてしまっています。これは今の線路ですね。これは昔の亀の瀬トンネル、これが潰れてしまっています。ここの地滑り対策工事を建設省、今は国土交通省ですけれども、戦後になってずっとやるんですけれども、その時に水抜きの竪穴を掘るんですね。その竪穴を掘っていたら、これが出てきたということで、これはあの初代の亀の瀬を潜っていたトンネルの遺構という事になります。ですから、上から掘ってたのかな、横からも掘ってるんですね。そしてら突然これが出てきたんですね。ここは、全然地滑りの影響を受けずに綺麗な状態でトンネルが残っていたと、この前後は埋まっちゃってるんですね。ここだけかろうじて奇跡的に残っていると、ここは地滑りでも動かなかったという事で、それが残っています。今でも年に何回か、ここを一般公開しています。あとですね、ここに今でも国土交通省の地滑りの対策事務所があるんですけれども、そこに小さな展示館(亀の瀬地滑り資料室)があって、そこに当時の地滑りの展示なんかもしていますし、それからお願いするとこの中も見せてくれます。見せてくれますと言ってもトンネルのどのくらいですかね、20mか30mくらいの短い区間だけなんですけれども、これが今でも残っています。

 それから先ほど芦屋川トンネル、日本で最初の鉄道トンネルをですね、明治7年に大阪神戸間の鉄道で作ったというお話しをしましたけれども、これはその時に3本のトンネルを掘るんですね。石山トンネル、芦屋川トンネル、それから住吉川トンネルという3本の天井川を潜るトンネルを作るですけれども、まあそのうちの芦屋川トンネルというものです。ここも大正時代に新しく複々線化するんです。潜水路橋を作って解体されて、今は消滅するという事になります。ですから、大正時代にもうこのトンネル自体は無くなっています。ところがですね、最近になって、近くの工事現場から何か煉瓦がいっぱい出てきたという話しがありました。で、ちょっと判りにくいですけれども、これが今の東海道線ですね。電車か走っていますけれども、このちょうと南側の擁壁のところですね、煉瓦の破片というか、塊ですね、塊がいっぱい積んであると、これですね、この塊。これが全部煉瓦です。今ここは新しくなってマンションか何かを建てるので土を掘削しているんですけれども、それをやっていたら何か煉瓦がいっぱい出てきたと、何かよくわからないという事で観に行ったら、ひょっとしたら芦屋川トンネルを解体した時の煉瓦片じゃないかという話しでしたけれども、ちょっと何とも言えません。実際観てみたんですけれども、トンネルだと煉瓦を、アーチのカーブがあるんですね、曲がって積むとアーチが必ずあるはずなんですけれども、それが一つも無いんです。みんなフラットで平なんで、まあこういう閘門のとこは平なんですけれども、そういうところの可能性もあるんですけれども、みんなこういう形でフラットなんです。で、これが当時の図面ですけれども、これが煉瓦です。煉瓦を6枚巻きなんですね。普通4枚巻きくらいなんですけれども、複線断面なんで、断面が大きいんで、ちょっと厚めに煉瓦を積んだ、これが煉瓦、で、周りはさっきの石山トンネルと同じで、コネ土で覆います。これが当時の図面なんですけれども、どこの煉瓦片をとっても、この曲がった部分が必ずどこかで出てくるはずなんですけれども、どうも出てきた煉瓦を観てもですね、そういうところは一つもないという事で、まあその後できた何か別の構造物の煉瓦片じゃないかという話しもありますし、いややっぱりこの芦屋川を崩した時の煉瓦じゃないかという話しもありますし、とにかくまだ特定はできてはいないんですけれども、時々鉄道の近くで工事をやると、こういった煉瓦片が出てきたという事がよくありります。(1:22:28.74)

 

8 煉瓦構造物の保存と活用

 最後に皆さんよくご存じだと思いますけれども、煉瓦の保存と活用という話しをちょっとしたいと思います。煉瓦構造物として保存活用というよりは、煉瓦の構造物のある部分を保存活用するという事にはなるんですけれども、有名なのは、碓氷峠のアプト道です。ここは、横川から軽井沢へ碓氷峠を登っていく鉄道の廃線跡がずっと残っているんですけれども、そこはですね、もう鉄道は通らないということで、こういった遊歩道で整備されています。全線はまだ歩けないんですけれども、途中の碓井第三橋梁までは歩けるようになっています。そこから先、あそこまで行けるのかな、あの、熊野平の変電所のところまでは行けると思います。全線はまだ行けないんですけれども、途中までは行けるということで、実際に現地に行くとですね、当然のことながらこんなクラックが入っていたりしたところもあるんですけれども、そういうところも、これは補修前ですけれども補修してですね、今は遊歩道として使っているということです。

 で、これは第三橋梁の上ですけれども、こういう手すりも昔の高欄の手すりって、今の建築基準法でいくと全然低いんですね。今の法律に合わせて、手すりを作ります。重要文化財に指定されていますから、構造物をいじるわけにはいかないので、ちょっとセットバックしたところにこの手すりを作っているんですね。下から見上げた時に手すりが目立たないように、色もステンレス製で周りの景色が溶け込むようなことをやって手すりを付けています。トンネルの中も一応照明を付けてですね、まあ遊歩道ですから、皆な安心して行けるようにしています。

 これは変電所ですね。丸山変電所の建物はです。これは一番酷かった時なんですけれども、ボロボロの廃墟に近くてですね、時々廃墟マニアの人が来て、色々いたずらされたりしていました。ただこれも国の重要文化財に指定されたんですね。まだ活用まではいってないんですけれども、こういった形で整備して、屋根もきちんとして保存しているという状態になっています。

 それからこれは、中央本線の山梨に入ったところですけれども、勝沼の辺りですね。大日影トンネルというトンネル、これも新しいトンネルに付け替えられて、古いトンネルは廃止になったんですけれども、そこを遊歩道として活用していいます。今は閉ざされているみたいですけれども、そこを遊歩道として活用しているということです。ただこれも非常に長いトンネルです。出口はこう見えるんですけれども、中々たどり着かないと、非常に歩いてくたびれるところなんですけれども、一応この照明とか歩道も線路は敷きっぱなしです。架線もまだて張っています。歩き易いように、ちょっと左右だけ舗装して歩けるようになっています。これは何年か前に土木学会で「選奨土木遺産」に指定されました。ここをでてさらに奥に行くと、深沢トンネルというトンネルがあるんですけれども、ここは勝沼なんですね。ワインの貯蔵庫として利用しています。で、トンネルの中っていうのは、大体温度が一定なんです。一年を通じて温度も湿度も大体一定なんですね。まあ特にワインの貯蔵には適しています。ワインカーブというのがあって、地下に穴倉を作って、そこにワインを貯蔵したりするんですけれども、それの規模が大きいものです。両側にワインセラーを並べているんですね。でこれは確か貸出していて、勝沼で作ったワインの貯蔵とそれから、レンタルで一般の人にもワインの好きな人は、ここに預けてワインの貯蔵ということをやっているところです。

 それから鉄道ではないんですけれども、これはあの神戸の湊川トンネルという水路トンネルです。こういう大きな鉄道でいうと複線断面クラスの非常に大きな断面のトンネルなんですけれども、これはですね、一回神戸の地震の時に閘門が崩れてしまってですね。だからこれはレプリカで復元した閘門なんです。ただ内部は無事だったので、新しい水路を別に付け替えて、中をドライの状態にしました。そこでこういったコンサートをやったりとか、イベントを色々やって、この湊川隧道の活用をやってます。湊川隧道のNPOで、湊川隧道保存友の会があるんですけれども、そこが年に何回かこういったイベントをやって今でも活用しています。もう水は来ないので、こういった形でイベントができるということになります。所々にくずれた煉瓦を活かして、これはベンチなどが置いてあります。

 最初にちょっと紹介しましたけれども、埼玉県の深谷市、日本煉瓦のあったところですけれども、ここはですね、深谷煉瓦街づくり条例というのを作って、煉瓦の街づくりというのに力を入れています。まだ十分にそれが発揮されているようには見えないんですけれども、地域を絞ってゾーニングして、「この地域で煉瓦っぽい素材を使って家を作ったり、物を作ったりすると、補助金が出ますよ。」という制度を発足させています。中心市街地で煉瓦を使って家を建てたり物を建てたりすると、補助金が出ますよという制度で、まあ煉瓦で深谷の駅ななんかも完全な煉瓦ではないですけれども、煉瓦っぽい、それからさっきの橋梁だとこういう煉瓦っぽい高欄で作って、煉瓦で街づくりというのに取り組んでいるというのが、このチラシです。

 ということで、大体時間になりましたので、私の話しは終わりといたします。ご清聴ありがとうございました。