煉瓦研究ネットワーク東京。煉瓦に関する歴史などを探索、探求しながら現地に赴いたりします。現在に伝わる煉瓦構築物を一つでも多く記録に残し、みなさんと共有していきます。

第1回研究会 小野田先生講演 記録

平成27年 5月16日 台東区東京芸術大学1号館

第1回研究例会 『鉄道と煉瓦』小野田滋先生講演録

 鉄道プライマーという本の序文のところとそれから、私が学位論文書いたときの末尾だけですけど、それをつけています。読んでいただくと、だいたいなんで煉瓦に詳しくなったかということが書かれていますけども、もともと別に研究所の仕事として煉瓦を調べるとかいうことで調べ始めたわけではなく、たまたまここに書いてありますけども東京都に勤めておられた西野さんという交通局にいる方が、鉄道の歴史には関心のある方で、やはり土木系の方なんですけども、いったい鉄道の煉瓦ってどうなっているんだという話しを私の方に振ってきたんですね。

 とりあえず、煉瓦の積み方と寸法あたりを測りどんな特徴があるのか調べてくれないかといったんですけど、私もですね10個か20個調べたらなんか答えが返せるだろうと深くは思っていなかった。最初にとりあえず手元にある昔撮ったトンネルの写真とか橋の写真を見ると、やはり煉瓦の積み方とか特徴がちょっとあるんですね。これはどういうことだろうなと思い、とりあえず写真だけで10か20かそれくらいの数を調べて西野さんの方に返したら、これはちょっと奥が深そうだという話でもうちょっと一生懸命調べたら面白い結果出るぞということで、私はその時こんなに深くはまるとは思ってはいなかったんですけども、せいぜい100個も調べたらなんか結論みたいなものはでるだろうと、非常に甘くみていたんでいね。

 煉瓦を甘く見ていたんですけども、実は非常に奥が深い世界で、私は土木の出身なんですけども、建築の方は既に近代建築の分野で村松貞次郎さんとか水野信太郎さんとかそのあたりの方が建築の煉瓦ということについて体系的に調べて、大体の結論はその時点でも建築分野に限っては、出ていたというような状況でした。ただ土木の方は、橋とかトンネルとか駅もそうですけども、煉瓦をたくさん使っているんですけども、何か今一つよくわかっていないので、これは自分で調べるしかないなぁということで、ぼつぼつと調べ始めたということで、自分が煉瓦が好きで調べ始めたということではなくて、ある人からそういうネタを振られて調べ始めたら、ずるずるとはまってしまったというような状況です。

 今日はその辺の話しを含めて鉄道と煉瓦の特徴についてお話ししたいと思いますけれども、鉄道と煉瓦の付き合いというのは、鉄道の開業が明治5年に新橋、横浜開業しました。煉瓦も幕末時代から入ってきましたが、やはり鉄道の工事で煉瓦を使うということで、当時は煉瓦工場があちこちなかったものですから、とりあえず直轄の工場を堺につくります。堺の昔の地図を見ると、ここに「煉瓦所」と書いてあります。ここにどうも煉瓦の工場があったようです。

 明治7年に大阪と神戸の間の鉄道が開業しますが、その時に必要な煉瓦を、この堺の煉瓦所でとりあえず作って、堺から船で対岸の神戸に運んで鉄道に使ったということになります。それで完成したのが日本で最初の鉄道トンネルの石川屋トンネルというトンネルとかいくつかありますけれども、こういったところが代表的なところになります。

 ご覧になってわかるように、当時イギリス人の技術者が来て指導するんですけども、きちんと煉瓦を積んでトンネルを作ったと、これは上が天井川ですね。こういったトンネルが明治7年に完成します。でこれは山口市の旧の小郡町ですけれども、山口に秋元俊三さんという小郡町長をされた方の旧蔵資料が博物館に寄贈されております。この方は鉄道に勤めていたことがありまして、その中に明治期の鉄道図面があって、その中にこの石川屋トンネルの図面が出てきます。ご覧になってわかる通り断面が丸い形をしています。これが特徴です。これが解体するときの石川屋トンネルなんですけども、これが旧の石川屋トンネルですね。右側が石川屋トンネルで左側に新しく鉄筋コンクリートで河川水路橋を作っているんですけれども、大正10年頃に初代の石川屋トンネルは解体されてしまいます。現在は残っておりません。

 今はこんな状況ですね。上が石川屋トンネルで、これが高架橋でJRの線路の東海道本線は、高架橋を走っているんですけども、その下に石川屋トンネルの跡があるということで、柱と柱の真ん中に小さい柱みたいなものが立っていますが、あれは「石川屋トンネルの碑」という記念碑です。それから右側のちょっと上がったところに小さな公園があって、そこに看板があります。これが日本で最初の鉄道トンネルの跡地ということになります。

 その後鉄道の工事につれて、まだ日本煉瓦とかそういった大きな工場ができていなかったので、鉄道の工事現場の近くに煉瓦工場を作って、そこから煉瓦を供給するということで、初期の頃はやっていました。これは今の肥薩線です。熊本が鹿児島の方に出る鉄道ですけども左側が熊本方、右側が鹿児島方です。囲ってあるところに、「水流」と書いて「つる」と読むんですけども、水流煉瓦石工場と書かれています。ここに肥薩線の工事の時の直轄の煉瓦工場を作ったというのが、当時の記録でわかります。

 鉄道の古い古文書が大宮の鉄道博物館に保管されているんですけども、それらを調べると当時煉瓦を契約した時の契約書が混じっています。体系的には残っていないんですけども、断片的に残っているという感じです。公文書ですから、色々と判子がべたべた押されています。二枚目の下の真ん中辺に堺煉瓦株式会社とかかれているので、堺煉瓦からから購入した時の契約書類ということがわかります。その中には煉瓦の個数だとか品質とか何型とかいうことが書かれています。

 そういった煉瓦で作った構造物が大坂山トンネルで、明治13年に完成しました。京都と大津の間にあります。これは今でも残っていて、今では使っていませんが、廃線跡ということで、鉄道記念物になっています。文化財にはなっていません。中はこんな感じですね。煉瓦で側壁とアーチが作られています。

 最初に煉瓦の積み方を振られたときにですね、写真をみていて気が付いたんですけども、トンネルの場合は、側壁といって横の壁の部分とアーチの部分で継ぎ方が違います。アーチの部分は長手積み、側壁はだいたいイギリス積みを使っているというのがわかりました。

 最初は全然わからなかったんですけども、いくつかトンネルを見ていくうちに、そういうことに気が付きまして、ちょうどこの部分ですね、ちょっとわかりにくいかもしれませんけども、このへんまでイギリス積みですね。でここから上は全部長手積みということで、このへんがトンネルでスプリングライと呼ばれていますけれどもアーチの起きるところです。ちょうど背面を立ち上げるところの最初の線がこのあたりになります。

 調査した煉瓦の現場の数は、最初は100か所くらいと甘く見ていたんですけども、それじゃあなかなか結論が出ないということで、じゃあ100の次は1000かと、500かということで、500調べてもよくわからなかったですね。

 その次にだんだん数を増やしていって、最初は関東とか中部とかある地域だけで結論をだそうと思っていたんですけども、どうもそれだけではかなり地域性があるので結論はでないということがだんだん判ってきて、最終的には2793か所、まぁ3000か所弱位を見て回りました。

 北海道から九州まで、沖縄は鉄道は昔ありましたけども煉瓦はないので沖縄を除く各都道府県を訪ね歩いて3000か所ほど煉瓦の寸法を、カッコは寸法を測ったところ、左側のカッコのない方は、調査したか所数ということになります。

 調査する内容も最初はよく判りませんでした。とりあえず長さと継ぎ方を調べてみてはどうかというような話しだったんですけども、どうもそれだけでは不十分だということがだんだん判ってきてですね、とりあえず所見的な構造物の名前だとか、種類だとか位置だとかそういうことを基本的に押さえて、まず使用材料の目安ということで煉瓦だけではなく、石も、この橋脚もそうですけれどもここに隅石がはいっているんですね。躯体のところは煉瓦ですね。橋脚はだいたい水の当たるところには石を使います。煉瓦は弱いものですから。これは隅石をいれていくんですけれども、残りは煉瓦ということで、まぁこういったものもあるので、煉瓦だけ調べていても結論はでそうもないので、材料の組み合わせに注目して調べました。

 それから煉瓦の積み方というのは基本ですね。寸法も基本の一つになりますけれども、寸法も最初は一個だけ測っていたんですね。でみなさんご存じのように、煉瓦って結構寸法にばらつきがあります。一個測っただけじゃよくわからないとい、たまたま小さいサイズのものを測ってしまって、それだけで結論をだすのは危険だということが途中で判って、一応10個測ってその平均値をとることにしました。

 で、それを基本にしたんですけれどもそこまでたどり着くのに、すでに100か所くらい訪ね歩いていたので、もう一回リセットして最初から調べた・・・という試行錯誤がだいぶありました。やはり最初にどういうやり方をやって調べたらいいか、建築の人も一応ルールみたいなものを決めて調べたそうですが、土木の煉瓦ともまたちょっと違うので、あの建築の場合はこういう建物単体で調べる中で一つの結論が出すという志向が強いようです。

 土木の場合は、こういう橋脚だとかトンネルだとか、とにかく全国あちこちにあるものですから、そういったものを総合的に見るためには、やはりある程度平均値といいますか、一つだけじゃなくてある程度平均化したデータを使わないと結論が出ないということが判ってですね、煉瓦の寸法も一個測るだけではなく、10個測ってその平均値をとるということを基本にいたしました。

 それから隅部のさんわりだとか煉瓦の装飾的な技法、今日は建物なんかも色々な軒飾りみたいなものがあますけれども、そういった装飾的な技法とか特徴とかそういうところを現地に行って調べるということをひたすら繰り返して大きなデータを作ったということになります。

 色々調べると、やはり煉瓦と石が、明治時代のまだコンクリートができる前でしたので、基本的な土木の材料になります。煉瓦と石をどういう風に使い分けていたかといいますと、路線でプロットすると黒く塗りつぶしているところが石材を使ったところですね。白ぬきが煉瓦を使ったところということで、塗り分けをするとだいたい予想つきますが、山岳地帯みたいなところは、やはり石がたくさんでてくるので、そういうところは石材を使う。関東平野とか大阪とかそういった平地のところは、石を山奥から運んでくるのは大変なので煉瓦を使うというのが基本だったようです。いろいろ入り乱れてはいるようですけれども、大雑把にはそういう傾向がみられるということになます。瀬戸内海はやはり花崗岩というか御影石がたくさんとれますので、そういったところは石を優先的に使っていたというということが判りました。

 煉瓦の寸法、これも基本寸法にばらつきがあるので、だいたい10個測って平均値をとってその場所の代表値ということでデータを積み重ねていきました。それをグラフ化するとですね、ちょっと面白い傾向がでてきました。このグラフは横軸が幅で、縦軸が厚さなんですけども、どうも厚さの非常に厚いグループ、厚さが60mmから70mmあるいは75mmを超える非常に厚肉の煉瓦があるところに分布しているということが判りました。

 平均的な値はこの辺、これが回帰直線になるなんですけども、厚さはどうも地方によって特色があるということが判ってきました。長さと幅はだいたい直線関係にあって長さに比例して幅も大きくなったり小さくなったりするということが判りました。

 長さと厚さをもってくると、やはり厚さのところで厚みのある煉瓦というのが飛びぬけた集団を作っているということが判ってきたということになります。これをクラスター分析という数学的な方法で分析して区分していくといくつかのグループに別れます。クラスター分析自体は非常に客観的なデータとして出てくるわけですけれども、それを区分するのは人の目分量で判断するものですから、どの辺を切り分けるかという問題はあるなんですけれども、だいたい切れ分けると、こちらの表にもつけていますけれども、だいたい7つくらいのグループに全国的な煉瓦の寸法が分けられるというようなことが結論として言えました。

 文献等で煉瓦の寸法というのは明らかになっているんですね。そういった波型とか東京型とか山陽型とかそういった当時の煉瓦の標準的に寸法と対比するとだいたいこのような比較になるかなというのが 一つの結論です。

 一群と下にあるのが厚肉の80mm近い厚さの煉瓦で、これは今度データは後で示しますけれども、一部のところに集中して分布しています。

 二群というのは山陽型と呼ばれている次に厚肉の煉瓦です。

 三群、四群あたりはだいたい標準的な寸法です。

 六群、七群になるとちょっと薄肉のですね、今度は厚さが非常に薄いという煉瓦のタイプに分かれます。

 全体のシェアからいくとだいたい五か四、三かこの、波型か東京型に区分されるんですけれども、ごく一部に一とか二とか、そのあたりのグループです。全国的に年代で見ると、今度は横軸が暦年で縦軸がシェアなんですけれども、やはりばらつきがあって、最初の頃は非常にばらつきがあるんですけれども、最終的には五とか三のグループにだいたい集約されるというのが傾向としてみられるかと思います。

 これは寸法と地方ですね。北海道とか九州とか四国とか、地方別に見るとやはり地域性というのが非常にあって、たとえば四国はほとんど三グループの煉瓦でしめられているので、これはやはり四国の特定の工場で作られたものが出回っていたということを、表しているのかなと推定されます。

 次に、先ほどの80mmに近い厚肉の煉瓦ですね、これが分布しているのがちょうど東海地方の名古屋から浜松のあたり、それから琵琶湖の沿岸で大津のちょっと手前あたり、で一つだけ信越本線の坂木新田トンネルというところに一つだけ、やはりこの厚い煉瓦が使われています。

 これはですね、鉄道を最初に作ったのが東京、大阪、それから東海道本線を作るのですが、その前に信越本線のここの線路を、やはり中山道沿いに鉄道を作るということで、工事運搬線で先に北陸とかこの辺の線路を作っています。東海道本線より先にですね。

 あとたけとり線です。その時にどうも敦賀に鉄道が達していたんで、敦賀から海軍が作った煉瓦をこっちに運んで、ここで使ったんじゃないかというふうに推定されます。ここの煉瓦もここで止まっていて、ここから先は普通の煉瓦の寸法になるなんですね。どうもここだけまだ線路がこちらに繋がっていなくてこちらから煉瓦を運んで使ったのではないかと推定されます。

 どこで作ったのかということが、やはり一番感心のあるところなんですけれども、ちょっとそれはなんとも言えません。当時知多半島とか琵琶湖の沿岸では煉瓦の生産がぼちぼち始まっていた時代なので、そのあたりで作った煉瓦を使ったんじゃないかと推定はしています。

 これは一つだけですね離れたところにある厚肉煉瓦を使った坂口新田トンネルの現状です。今の線路はこちらを走っていますが、もう廃線跡で使っていませんけれども、トンネルを取ってしまうと崖が崩れてしまうので、そこを押さえるためにトンネルを残しているということです。この煉瓦が先ほどの厚肉煉瓦を使ってまして、あともう一つはですね、こんな感じですね。もう蓋をして中には入れないような状況です。

 次に刻印はですね、これが刻印なんですけれども「○」に「B」っていう文字があります。あと「T」という文字が入ったものがありますが、この刻印はやはりさっきの一群の煉瓦が使われている地域です。今のトンネルはここの坂口新田トンネルですけどもが、浜松あたりの煉瓦にも同じ刻印があります。ですからたぶん同じ系統の煉瓦ではないかというふうに思っていますけれども、肝心のどこで作ったかというのは、今も判りません。まあだいたい知多半島か琵琶湖の沿岸というくらいの見当しかつかないということです。そういうことで、これは二群の次に厚みのある煉瓦ですけれども、それは東海道本線とか山陽本線の沿線にたくさん分布しています。それから三群になるとこの辺が標準的な寸法なので、かなり全国的に散らばって分布しているとうことがわかります。あと、四群、五群もそうですね。これも全国的にあちこち北海道から九州まで分布しています。六群、七群あたりになると、ちょっと地域性があるといえばあるかなと。ちょっと薄肉の煉瓦、そういった煉瓦は特殊なところで使っているということで、この辺も産地を特定するところまでは行きませんが、だいたい目安をつけると一つの材料になるのではないかという風に思います。

 それから煉瓦の積み方のパターンですが、これもみなさんよくご存じのようにイギリス積みとかフランス積みとか色々あるんですけれども、これがやはり鉄道の煉瓦を調べると非常に特徴があります。

 これは大阪環状線の桜ノ宮という駅がありますけれども、その近くに淀川橋梁の橋台の跡というのがあります。向う側が今の環状線の線路ですけれどもその手前に煉瓦の橋台が残っていますけれども、片方が、これが煉瓦の積み方ですけれども、左側がイギリス積み、右側がフランス積みです。内側だったか外側だったか正確には覚えていませんけれども、どちらかがフランス積みで、もう片方がイギリス積みと、橋台が二つ並んでますから、昔の、今でいう外回り線、内回り線ということになりますけれども、上り線、下り線で橋台を一基づつ作った時に積み方を変えて積んでるというところです。

 これは小樽の手宮の機関区です。これもフランス積みの煉瓦を使っています。北海道は、北海道庁がやはりフランス積みを使っているということで有名ですけれども、たぶんこれは平石助次郎が設計しているんですね。同じ人が設計しているので、フランス積みを使ったのではないかと思います。

 これは九州ですね。九州鉄道の昔の本社です。これは今九州の鉄道博物館になっていますけれども、ここもフランス積みの煉瓦でできています。

 それから碓氷峠ですね。碓氷峠の橋梁ですけれども橋梁のコーナーのところですね。左右のコナーのところもフランス積みを所々使っています。基本はイギリス積みですが、フランス積みを使っている煉瓦が全国的にあちこちに分布しているというのが判って、それを地図にプロットすると、こんなような感じです。一つは近畿地方あたりに集中している、それから九州、あとは全国的にばらけているというような感じですけれども、まあこういったところにフランス積みという特殊な積み方が使われているということです。

 長手積みはほとんど使われないんですけれども、こういう煉瓦の昔のランプ小屋ですね、石油ランプの油を貯蔵する施設ですが、そこによくこの長手積みが使われています。

 小口積みは・・・これは東京駅ですね・・・これは東京駅の前にあった交番ですが、ここもたぶん東京駅を作るときに作ったものだと思います。大正3年ですね。交番は現在明治村に保存されています。東京駅の近辺はだいたい小口を使っています。これは表面だけですけれども、内部は・・・東京駅の内部ですが・・・所々煉瓦が露出したところがあるんですけれども、これはカメディアというバーのカウンターのあたりです。これはご覧になってわかるようにイギリス積みで躯体はできています。表面だけは小口で仕上げているというのが判ります。

 土木の煉瓦の積み方を色々区分するとこんな風に大雑把に分かれるということで、トンネルの場合はアーチは基本的には長手積みで、側壁はイギリス積みと、それからアーチ橋も同様にアーチの部分は長手積み、側壁はイギリス積みというのが基本になっています。

 橋台とか橋脚部分、所謂橋梁下部構造といわれている部分ですけれども、その部分もやはりイギリス積みが基本で積まれているというのが判ります。

 基本的にイギリス積みが一番積みやすい積み方で、なおかつ強度的にもフランス積みより強いというようなことで、イギリス積みが標準的に使われているということが判りますが、先ほどご紹介したようにフランス積みもあちこち、所々にあるということで、なぜそこだけフランス積みを使ったのかというのはよくわからないんですけれども、まぁ職人が試しにやってみたとか、あるいは技師の人がこれでやってみろと命じたのか、そのへんは何とも言えませんが、フランス積みがあちこちに残っているということも判ってきました。

 トンネルのアーチは、こういう狭い場所で煉瓦を積んでいかなければいけないということと、もう一つは曲率が非常に大きいので、長手で積まなければ上手く積めないということもあって、トンネルのアーチ、それからアーチ橋のアーチ部分は基本的に長手で積むということが基本になっています。

 トンネルの場合はですね、こうやって分割して掘っていきますので、それごとに煉瓦を積んでいくということになるので、上と下で煉瓦の積み方を分けるということが基本だということです。

 それからちょっと珍しい煉瓦の積み方ということで、これはねじりまんぽと呼んでますけれども、煉瓦を螺旋状にねじって積んでいく積み方ですね。入口だけ見ると、これは上を線路が通ってますが、下が水路ですね。水路とですね、これは人がくぐれます。幅は1.2m、しゃがんでくぐらないとくぐれないんですけれども、ちょっと煉瓦をみると斜めに積んであるのが判ります。これは中ですね。こんなふうに螺旋になっています。最初はなんでこんな積み方をわざわざしているのかということがよく判らなくてですね、こういうのが実はあちこちにあってよく判らんと、よく判らないけれどもねじりまんぽというふうに言われているというふうに言われて、その理由はよく判りませんでした。私も最初はよく判らなかったんですけれども、なんか理由があってたぶん積んだんだろうと、所謂そのデザインとか意匠とかそういった芸術的な感覚で積んだのではなくて、やはり実用的な目的があって、こういう積み方をしたんだろうというふうに、最初に見たときに感じました。

 これは東海道本線の門ノ前の架道橋、大阪の茨木ですね。あの辺りにありますけれども、ねじりまんぽのかなり大きなものの一つです。これも外からみると普通の煉瓦のアーチ橋で、上に線路が通ってますけれども、中にはいるとこんな感じでねじって作っています。ここが非常に特徴的なのは、側壁のせりもちのところ、ここに石を挟んでいるんですね。この石も斜めの角度に合わせてひさげをつけているという非常に凝った作りになっています。

 こんな感じですね。これは横から見たところです。これはイギリス積みです。ここが石ですね。でこれが斜めの角度で、それにあわせて石も切っていますね。これはその近くにあるやはり東海道本線の、これは高槻に近いところですかね。奥田端(奥田畑)という町、ここもねじって積んであります。ここは側壁のところにはさっきの切石のようなものは無くて、直接煉瓦に煉瓦をくっつけているというようになっています。

 これは九州の日田彦山線という小倉からちょっと南の方に行ったアーチ橋なんですけれども、見た目は普通のアーチ橋なんですが、こんな感じで煉瓦をねじって積んでいます。ここは側壁は石で積まれています。先ほどの門ノ前と同じように、石をこういう風に角度をつけてますね。ギザギザにして仕上げているというのが特徴です。こんな感じてすね。もう一つはですね、この表のところですね。最初の一番上だけを段差をつけていますね。こちらの方は面一に仕上げています。なんでこんなことをしたのかよく判りませなん。まぁ、こういう仕上げをしているということです。

 それからこれは狼川トンネルという、これは上が天井川で、今の現在線は東海道本線草津のあたりですけれども、これが線路ですね。今は線路を切り替えて、これは廃線になっているんですけれども、この上が天井川で昔は列車がこの下を潜っていました。ご覧になってわかるように、天井川のトンネルですから、先ほどの石屋川と同様に短いトンネルなんですけれども、下に降りてもう半分埋もれてしまっているんですけれども、煉瓦を斜めに積んで、ねじりまんぽの構造でできているということが判ります。

 ここはこの吊り石の表の面のところですね、ここもギザギザに仕上げていますね。平ではなく、面一ではなくてラフに仕上げているというのが判ります。こんな感じですね。これがねじってある。段差つけていまして・・・。

 たぶんここを作るのは結構難しかったのではないかと思います。煉瓦を切ってこの角度に合わせて積んでいかなければならない、なおかつここもですね、適当にやっていてはダメなので、やはり寸法をきちんと揃えないと、こんな綺麗な面はでないはずなんで、どういう風に積んだのかなぁというのが不思議なところです。

 これは北九州の折尾にあるねじりまんぽです。これは昔西鉄の、手前の線路はJRのものですが、この高架橋は昔西鉄の路面電車が小倉の方から折尾まできていた廃線跡で、これが今でもこういった形で残っています。折尾の駅は再開発をやっているんですけれどもこの煉瓦構造物は一応残して何かに活用したいということで、ものは残っています。

 どういう形で残していくのかは、まだこれからですけれども、公園にして整備するといったことも考えられています。で、その中の一つはですね、いくつかアーチがあるなんですけれども、一番端の一つが実はねじりまんぽでできています。

 ここから見るとあまりよく判らないんですけれども、近づくとここが斜めに仕上がっているのが判ります。こういう形ですね。中に入るとこんな感じです。ここの迫持(セリモチ)のところは、石ではなくて煉瓦と煉瓦で突き合わせているという形をとっています。こんな感じですね。ただ一番端のところには、迫受け(セリウケ)の石をはめてなおかつですね、さっきの狼川もギザギザでしたけれども、ここは面一で仕上げてあるというのが特徴です。

 こういったねじりまんぽ、斜拱渠と明治の文献では呼んでいたようですけれども、この分布を地図にプロットするとだいたい関西地方に多いというのが一つ判ります。

 それから北九州のこのあたりですね、関西地方、それから碓氷峠のところにも二つほどありました。それから一番北限は、この新潟のちょっと手前のあたりの新津のあたりですけれども、そこに一か所あるということが判って、これを調べた時点でだいたい30か所弱くらいだったと思いますけれども、そのあと追加して調査してまだ一つか二つしか見つかっていません。全国的にもこの程度だったのかなと思います。東北とか北海道には今のところ発見例はありません。

 当時この技法をですね、こういう斜拱渠という本がでていまして、これは国会図書館にもありますけれども、これに技法が解説されています。これはそれに出ている図ですね。もともとはイギリスの橋梁の技術なんですけれども、基本的にこの上が線路、この下が道路というふうに考えています。線路を斜めに横断するときにこういうふうなねじった積み方が観られます。それはどういうことかというと、真っ直ぐに煉瓦を積んでしまうとこっちの橋台とこっちの橋台の迫持つところが抜けてしまうんですね。だから両方に力を連雑させるためには煉瓦を、あるいは石をねじって積まなけばいけないと、この角度に合わせてですね。道路と線路の交差ですね、ですからこういった斜めに道路が横断しているところにねじりまんぽがあるという事が原則ということになります。

 これが展開図ですね。ですから斜めに横断しますから、その斜めの角度にあわせて煉瓦を斜めに積んでいくと、自然にこういったねじった形になると、ねじって積んでいるわけではなくて、ねじったように見えると言った方が正確かもしれません。そういった積み方をすることによって、斜め方向のアーチを作るという一つの技術です。これも展開図の一つですね。これは数学的に、幾何計算をやると、サインコサインの計算をすると答えが出てきますから、それでもって角度が決まっていくということになります。これは条件ですけれども、通常のアーチ橋は線路があって、その下に真っ直ぐ直角方向に穴を作るんですけれども、中には斜めに道路を作りたいというときは、一つはさっきのねじりまんぽで積んで仕上げる方法と、この道路自体を斜めに作ってしまうというこの二つの方法があって、こっちの方は普通に煉瓦を積めばできるんですね。こういったタイプの斜めアーチ橋もありますし、ねじりまんぽもあるということになります。

 それからこれはねじりまんぽではないんですけれども、やはりちょっと変わって構造物を斜めに作ると、煉瓦を斜めに積まなければいけないということで、この写真だけではわかりにくいですけれども、煉瓦の表面に随分凸凹ができているということが判るかと思います。近づいてみるとこのようになっています。この橋自体も先ほどの図の真ん中のこのタイプですね。線路に対して斜めだけれども、坑道を斜めに仕上げることによって線路の角度に合わせているということになるんですけれども、それでも煉瓦を少し斜めに積まなければいけないということで、煉瓦を微妙に斜めに積んでいるんですね。結果的にこういった表面ができているという変わったアーチ橋で、これは篠ノ井線の松本と白坂の間に一か所こういう変わったアーチ橋があります。これも意図的にこういったデザインを使ったんじゃないかと思います。

 ねじりまんぽと同様によく話しに出てくるのがゲタッパという煉瓦です。これは土木で、建築でもゲタッパの煉瓦を使いますけれども、さきほどのねじりまんぽはおそらく建築では使わない、土木だけで使っていると思います。ゲタッパは建築でも使うんですけれども、これは普通のアーチ橋で、これは九州の平成筑豊鉄道といって昔のJRの田川線で、行橋から田川の方にでるローカル線です。そこに明治28年に開業しますが、こういった石造りのアーチ橋とか煉瓦のアーチ橋があちこちあるんですけれども、これはその一つですね。

 こちら側は普通の石造りのアーチ橋みたいですけれども、これは完成した時の写真ですね。その反対側が実はこういったゲタッパで出来ています。これはその反対側になりますね。この向こう側がこの写真になります。ご覧になってわかるように、煉瓦を凹凸型に組み合わせて積んでいると、なんでわざわざこんなことをやって積んだのかというのが実はよく判っていませんでした。ご覧になってわかるように煉瓦が段違いになっていますけれども石ですね、その辺が石積みで出来ているんですけれども、ここも段違いになっています。

 最初は理由がよく判りませんでしたが、この方向性が実はあって・・・こんな感じですね・・・こういう感じで煉瓦を一つずつ引き込ませたり、飛び出させたりということです。繰り返した形で煉瓦を積んでいるという構造物がこの田川線には使われてます。

 これもそうですね、これは橋台、この上に鉄の桁が載っているのですが・・・この部分ですね・・・ここがこう段違いになっています。こちらは面一ですね。この段違いの部分、所謂ゲタッパの部分は、どうも線路の片側だけにあるようだということが、調べた結果判りました。

 これは煉瓦ではありませんけれども、石積みの橋台なんですけれども、やはりこちらはゲタッパなんですね。こちら側が面一ということで、片側だけをゲタッパで仕上げるというのがどうも調べた結果判りました。これは石積みですね。こちらは面一ですけれども、こちらは段差が付いています。その方向をプロットすると、だいたい線路の一定方向にゲタッパがあるというのが判って、結論から言うと、どうも将来線路を、今はここは単線なんですけれども、複線にしても、複線化が簡単にできるようにと、線路を増やしたときに、構造物も継ぎ足して作るということで、こういったゲタッパで仕上げたが、結果的には単線で終わっているので、ゲタッパのまま残っているというのが結論です。ただ中には、だいたいの方向は行橋を起点にすると、線路の左側にゲタッパがありますが、中には部分的に右側の反対側にゲタッパを付けたとところがあます。これも実は理由があって、こういうトラス橋がかかっているところに反対側のゲタッパがあるようです。

 そういうところは、必ず橋の前後にこういうSカーブと呼んでいますけれども、こういうカーブがあるんですね。線路をわざと反対側に振って橋を渡るというような形になっています。なんでこんな面倒なことをしたのかということを推理すると、理由はこういうことだと思います。こちらが行橋、こちらが田川で、通常はゲタッパをこの左側、こちら側に付けるんですけれども、ですから線路は基本的にこちらです。こちらにあって、将来線路を複線化した時に左側に増やすということを考えていたようなんですけれども、どうもこのトラス橋のところだけは、こちら側にゲタッパをつけてしまうと、こちら側が川の上流なんで、ゲタッパに水が当たっちゃう訳ですね。ですから水切りをここに付けなければいけないということになると、ゲタッパは下流側に付けなければいけないということになるので、線路をわざわざここにSカーブを付けて線路を左側に振って川を渡るということにしたということのようです。ですから基本的にゲタッパは左側なんですけれども、このトラス橋のある部分だけは、右側にゲタッパがあります。ゲタッパの煉瓦で右側にあるのは、北九州にある茶屋町橋梁ですね。これは北九州市の文化財に指定されていますけれども、ここは昔は今の鹿児島本線が走っていた廃線跡にある煉瓦構造物です。

 昔はこの上を線路が走っていたんですけれども、ゲタッパも全部ではなくてこの部分だけですね。アーチとそれからフェンスブックの一部というところにゲタッパが使われているということが判ります。これはゲタッパを拡大したものです。後は線路を将来増やすということをやったという証拠がこのヨウチョウインジです。線路はこの真ん中にありますので、盛り土があって線路、ここに列車が走るわけですけれども、将来こちらに線路を増やそうということで、用地杭が線路からちょっと離れたところにある、普通は用地杭というのは、こののりちぎっているんですけれども、盛り土のこの下の部分に用地杭を打つんですけれども、田川線の場合は、どうもこの用地杭が随分離れたところに打ってあるということが判りました。これは将来複線化するということで、当時から用地を確保していたという一つの証拠になります。こんな感じですね。上が盛り土で列車が走っているんですけれども、これが用地杭ですね。

 ・・・・・・・聞き取れず・・・・・・・・・・・こちら側に線路を増やそうと考えていたんではないかと推測されます。そういうことを考えると、継ぎ目の位置というのをみれば、線路をどちら側に増やしたかということが、実はゲタッパでもないところは結構東海道本線ではあるんですけれども、どうも昔ゲタッパだったんじゃないかという痕跡があって、そういうのをみていくと、どうも最初は単線で開業したんですね。盛り土もここだけで済んだんですけれども、線路を増やして複線にしたときに盛り土を増やして煉瓦を継ぎ足したんで、この辺に煉瓦の継ぎ目ができるといのうことになって、この煉瓦の継ぎ目の跡を調べると、どっちに線路を増やしたのかということがわかるとうことで、かなりマニアックですけれども、こういうことが煉瓦を見ると判るということになります。

 タカマツセイマツを将来複線にしようとした一つの証拠が、このトンネルの断面ですね。今でも残っている田川線のトンネルですが、ご覧になってわかる通り線路は単線でしか使っていないんですけれども、断面は複線分の断面があります。それから建築物、これは旭川の昔の国鉄旭川工場の煉瓦の建物を保存して、今は街のちょっと何センターか名前は忘れましたが、イベントの建物として使っていて保存されています。

(編集者注:NPO法人旭川NPOサポートセンターが「活力ある地域社会の形成、市民主体のまちづくりへ」を掲げて活動の拠点としていて、建物名を『旭川市市民活動交流センターCoCoDe(ココデ)』といいます。)

 でこれは実はプラ積みの煉瓦ですが・・・こういったゲタッパですね・・・があります、壁にですね。ですから将来実際建物、壁を増やしていたのかそれとも増やそうとして作って、結果的に増やさなかったのかよく判りませんけれども、こういったところが所々にあるという建物です。

 ご覧になって分かるように煉瓦の積み方がフランス積みですね。さっきの北海道の手宮もフランス積みでしたけれども、その辺の影響があるのかなと思っております。

 それからゲタッパの小筒というのは九州だけではなくてですね、これは昔京都の近くにあった煉瓦のアーチ橋の写真で、もうこの写真の煉瓦のアーチ橋はありませんが、ご覧になって分かる通りげたっばで仕上げているということで、大阪・京都の鉄道も最初はこういうげたっば仕上げて、その後複線化してげたっぱになったということかなと思います。

 これは当時の建築の教科書にでてくるゲタッパの解説図です。それからいろいろ調べたんだけれども結果的によくわからなかったというのが、この煉瓦の隅のところの仕上げですね。イギリス積みにしてもフランス積みにしても煉瓦のコーナーのところは端物を入れてきちんと面一に仕上げなければなりませんが、教科書ではようかんを挟んでイギリス積みをちゃんとやればコーナーがちゃんとできるという風に解説されているんですけれども、実際に見るとようかんを挟んだ煉瓦積みというのはほとんどなくて・・・ここはようかんをはさんでいますね・・・土木の場合は、あまりようかんをきちんとはさんだところは少なくて、だいたい七五分の煉瓦と普通の煉瓦を適当に組み合わせてコーナーを仕上げるということが分かりました。これも実は色々なパターンがあるので、行くたびに調べましたが、傾向ですとか地方別に特徴があるとかそういったことは出てきませんでした。おそらくこれは煉瓦職人のある程度の判断ですね。別にこのやり方でやれと決まっていたのではなく、現場の職人の判断で積んでいったのではないかと推定します。

 最後に煉瓦からだんだんコンクリートに移っていくのが、明治の末から大正時代にかけてということになりますが、それが分かる構造物というのがいくつかあります。これは東京駅のちょっと北の方の常盤橋の架道橋という、手前が大手町で上が山手線と京浜東北線で、これは中央線の高架橋です。中央線を上にあげるときに、ここの煉瓦をだいぶ削ったんですね。その断面がここに見えます。実際現地に行かれると分かると思いますが、この煉瓦の断面が見えるんですが、この架道橋を挟んでこの手前の有楽町方が明治43年にできた古い煉瓦の高架橋です。ここから先が大正8年にできたコンクリートのアーチ橋なんですけれども、表面だけは煉瓦で仕上げています。ご覧になって分かるように、ここに煉瓦のアーチがあって、これが煉瓦の橋台です。反対側はコンクリートでできています。これは拡大したところです。これが有楽町方です。ここは表面がタイルですけれども、中はタイルです。これは神田方になります。表面はタイルが貼ってありますけれども、中は鉄筋コンクリートというのが分かります。

 これは中央線の線路を高架化したときに削ったので、そういったことがここに行くと分かるということです。こういった形でだんだん煉瓦から鉄筋コンクリートへ時代は移っていくということになって、コンクリートの時代になっても、こういったブロック状のものを使うと・・・煉瓦のようなものですね、塊を積んでいくという技法はある程度残ります。それがコンクリートブロックという材料なんですけれども、こういった型枠でコンクリートのブロックを作って煉瓦のように積んでいくと、例えばトンネルでいうとこんな形でコンクリートブロックを積んでいます。

 これも煉瓦とコンクリートブロックを組み合わせるんですけれども、組み合わせ方にいろいろ特徴があって、これは一本のトンネルですが、これが長手方向ですね、でこれが断面ですけれども、全部煉瓦で作ったところもあるし、側壁はコンクリートでアーチだけ煉瓦、それからアーチの一番上のところだけ煉瓦というところもあります。コンクリートとコンクリートブロックと煉瓦を組み合わせたところもあります。

 大正時代はこういった材料が色々と混じって使われるということになるんですけれども、色々な材料が一本のトンネルの中で、色々な組み合わせの仕方で出来ているということが判るんですけれども、煉瓦は結果的にはアーチの一番上の部分ですね・・・ここです。当時の教科書を見ると、蒸気機関車の煙が一番直撃されるところで、コンクリートだとそこが一番傷むことから煉瓦で手堅く仕上げた方がいいというようなことがあったようで、最後まで煉瓦がアーチ部分に残っています。アーチ部分はコンクリートが打ち難いということもあって、煉瓦が最後までアーチの天辺の部分に残ったということです。

 色々なトンネルを見ていると、色々な組み合わせがあります。

 これは、コンクリートブロックのトンネルです。

 これは、コンクリートブロックの橋脚です。

 それからちょっと特殊な煉瓦として、鉱滓煉瓦・・・鉄を作るときにスラグが出てくるわけですけれども、そのスラグを使って再利用して煉瓦のようなものを作る鉱滓煉瓦というものがありますけれども、それも一時大正時代に使われます。

 これは八幡製鉄所のトンネルなんですけれども、これは全部鉱滓煉瓦で出来ています。

 それからこれは山口ですね。鉱滓煉瓦を作っていたのは北九州と釜石、それから室蘭でも作っていたようです。その周辺の構造物には、こういった鉱滓煉瓦とかこういう特殊な煉瓦が使われていたようです。これは岩手ですね釜石近くの廃線跡のトンネルですけれども、鉱滓煉瓦を使っています。

 それから石材ですね。これは表面に石材を貼って中はコンクリートで出来たアーチ橋なんですけれども、こういったものもできるということです。

 これは神田の駅ですけれども、神田駅の中は鉄筋コンクリートで表面だけは煉瓦のタイルを貼って仕上げています。

 鉄筋コンクリートもだんだん、これは単に柱に板を渡しただけなんですけれども、こういったラーメン構造ですね、フレーム構造がその後大正時代に使われるようになります。それが最終的にこういった鉄筋コンクリートのラーメン高架橋になるということになります。

 一番最後ですけれども、私の書いた本を紹介させていただきます。ブルーバックスでだした本で、書店とかamazonとかでも買えると思いますけれども、よろしければご購読ください。

 以上で私の報告を終わらせていただきます。

 ご清聴ありがとうございました。


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