まず向かったのは、旧淀川右岸(桜ノ宮駅から見て天満駅側)の橋台跡である。電車の車窓から橋台跡が残っていることは確認済みだ。

早速近くの橋を渡って対岸へと急ぎつつ川面を見ていくと、一か所だけ橋脚跡と思われる遺構が残っていた。
次の写真の中央、コンクリートの護岸の手前にあるのが、昔建設された橋脚の跡と思われる。

28淀川橋台跡.jpg

対岸に渡ると残念ながら橋台は1線分しか残っていない。

29桜ノ宮 淀川橋梁 大阪鉄道2.jpg

積み方はイギリス積みである。

くまなく探したが刻印を見つけることはできず、暗くなり始めたことも有って橋台によじ登ることは断念せざるを得ず、これが大阪鉄道が造ったものか関西鉄道が造ったものかは判断つかなかった。

しかしながら隅石の形と積み方を観察すると、先ほど見てきた大阪鉄道のフランス積みの橋台と共通点が多く、1895年(明治28年)に建造された大阪鉄道の橋台ではないだろうか。

次の写真が前回、前々回ご紹介した旧淀川左岸(桜ノ宮駅側)の大阪鉄道が建造したフランス積みの橋台である。

17桜ノ宮 淀川橋梁 大阪鉄道.jpg

煉瓦の積み方がフランス積みとイギリス積みの違いがあるものの、隅石の形、大きさ、積み方がほぼ同じもののように見受けられる。

再び橋を渡って桜ノ宮駅に戻ると、今度は東(京橋駅方面)へと向かった。

18淀川の夕景.jpg

最初に目にしたのは、桜ノ宮駅直下にある欠円アーチの隧道である。

19桜ノ宮駅下隧道.jpg

だいぶ陽も落ちてきて暗くなってくると、過去にタイムスリップしたような気にさせる雰囲気がある。
積み方は何れもイギリス積みである。

駅を通り越してさらに行くと、このような隧道があった。
次の写真は、後掲航空写真の③の位置から撮影したものである。

25桜ノ宮駅東大阪鉄道2.jpg

20桜ノ宮駅下隧道2.jpg 

これは、隧道として作られたのではなく、左右の煉瓦の構造部は橋台で、この上にガーター橋が乗っていたのではないだろうか。
天井を見ると、コンクリートの打ちっぱなしであることから、コンクリートで路面をかさ上げした時に、ガーター橋から鉄筋コンクリートの天井に作り替えられたのではないかと推測する。 

さらに進むと、次の写真をご覧いただきたい。

20桜ノ宮駅東隧道.jpg 

手前から現在の環状線、大阪鉄道の敷設した城東線跡、関西鉄道の敷設した桜ノ宮線跡が並んでいる。手前の環状線のアーチは鉄筋コンクリート造りであるが、相応の歴史があるように見受けられる。

このあたりの航空写真を見ると、次のようになっている。

桜ノ宮駅東航空写真.jpg

航空写真で黄色の点線で囲ったところが、城東線の遺構と思われる。

①の位置から観たのが、次の写真である。

22桜ノ宮駅東隧道2.jpg

城東線跡は単線、桜ノ宮線跡は複線分の橋台が残っているが、城東線の橋台上部はコンクリートで嵩上されている。また桜ノ宮線の複線分のうち城東線側がコンクリートで嵩上されている。

21桜ノ宮駅東隧道.jpg

城東線は当初単線で敷設され、のちに1919年(大正8年)に複線化されていることから、ここでは桜ノ宮線の廃線跡を利用して複線化されたものではないだろうか。

城東線跡も桜ノ宮線跡もいずれもイギリス積みである。
この反対側(桜ノ宮駅側)は、残念ながら城東線の橋台のみ残っていた。
次の写真が航空写真②の位置から撮影したもの。

22桜ノ宮駅東大阪鉄道.jpg

こちらもイギリス積みである。

もうすっかり暗くなり、この後泉佐野へと向かわなければならないので、これ以上の探索を諦め、桜ノ宮駅から泉佐野に向かうことにした。

今回の調査では、フランス積みは淀川橋梁跡の一か所でしかみられず、なんでここだけフランス積みで造られたのかは謎のままとなった。

謎は謎で、また楽しいものである。再び環状線に乗ると、車窓からすっかり暗くなった浪速の街の様子を見るでもなく、あれこれ明治の頃に思いめぐらせた。