東京湾要塞 千代ケ崎砲台1・・・横須賀市

さて、先日国の史跡指定を受けた千代ケ崎砲台を見学させていただきました。
千代ケ崎砲台は、首都東京を守るために設けられた東京湾要塞の一翼を担うもので、明治時代に日本各地につくられた要塞の中では比較的後期のものとなります。
東京湾要塞の建設は1876年(明治9年)に、東京湾入り口の富津岬と観音崎を結ぶ線を防御線として、まず観音崎に陸軍が砲台の建設を始めました。

ここ千代ケ崎には江戸時代に造られた平根山台場がありましたが、そこを包含して千代ケ崎砲台は建設されました。観音崎砲台の援助と浦賀湾前面海域防御、さらに久里浜に上陸した敵に対する防御が主な任務です。

1892年 (明治25年12月6日)に起工し、1895年(明治28年2月5日)に竣工したといいますから、2年3か月かかっています。周辺には江戸時代に灯台の役目を果たした燈明堂があり、建物が復元されています。
今回は浦賀駅から約3kmを、ぶらぶらと燈明台のある燈明崎まで歩きました。

以前浦賀の煉瓦造りの乾ドック(現住友重機械工業横須賀造船所浦賀艦船工場)を見学に来た時は残っていたドックの周りに巡らされた煉瓦塀は、取り壊されていて新しい壁になっていました。刻印の観察できる煉瓦がいくつかありましたか、どこに行ってしまったのでしょう。
ここだけでなく、すでに今まで歩いてきたあちこちの煉瓦が、どんどん失われていっている状況に焦燥感を感じています。

 

先日ある方とお話しをしていて煉瓦の話題になったときに「煉瓦のどこがおもしろいんだ?」、また「煉瓦が考古学? 考古学は土器や石器を発掘するものだろう!?」とも言われました。近代産業文化遺産としての煉瓦が考古学の対象になってきたのは、ここ数年のことと思います。まだまだ、近代日本の曙の時代である明治、そしてようやく日が昇り始めた大正、昭和のことをしっかり調べて記録し、後世に伝えていくことは重要なことだと思います。

高々100年ちょっと前のことが謎だらけ、用いられた技術も伝承されずに廃れてしまったものもあります。いろいろな資料を集め、点と点を線で結び、線と線で形を作って、失われたものの謎を解いていく面白さは、まさに考古学の醍醐味ともいえるでしょう。
一人でも多くの方に、近代産業文化遺産としての煉瓦の魅力に気づいていただき、次代まで守り伝えていきたいものです。

さて、あゆみを戻して燈明崎から少し浦賀駅方面に戻ると、左に上っていく分岐があります。

道幅4m程度の陸軍が切り開いた軍道で、分岐から標高差約50mをだらだらと登っていくと、ほどなくして両側が房州鋸山で切り出された石材で築かれた柵門にたどり着きます。

ここには3か所に合計6基の28cm榴弾砲座があり、地下に降りると砲側弾薬庫、棲息掩蔽部などの諸施設があります。
さらにその先には右翼観測所のほか、臼砲、加農砲、機関砲からなる陸正面防御砲台がありますが、現在は私有地のため、立ち入ることはできません。
(出典 横須賀市教育委員会発行『史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ケ崎砲台跡』)

ここに設置された28cm榴弾砲は、1884年(明治17年)にイタリアの技術と鋳鉄を使って大阪砲兵工廠で試作され、のちに1891年(明治24年)には完全に国産化され、国内各地の要塞に配備されました。日露戦争における二○三高地の攻略にも18門が投入され、合計16940発が使用されたといいます。最大射程距離は7800mです。
それでは柵門から順番に見ていきましょう。

まず柵門ですが、方形に成形された石を積み上げた布積みで、江戸期の城郭の石垣とは明らかに違い、西洋の城郭を思わせる立派なものです。西洋の築城技術の影響を受けているのでしょうか。使用された石材は、東京湾を挟んだ対岸の千葉県は鋸山で採掘された房州石です。房州石は、大谷石によく似た砂質凝灰岩で、この柵門に使われた石材に残された刻印から、鋸山で採掘されたものと特定されました。

柵門を入ると正面には土塁がありますが、この土塁は土を盛って作られています。道の突き当りには掘り抜き井戸があり、鋼鉄製の蓋がかぶせてありますが、それを少しずらして中を覗くと、深さは3mくらいでしょうか、すっかり今は枯れていて、内部の側壁は、煉瓦を小口積みで作られています。
そして蓋を開けた隅に目を転じると、小菅集治監で焼かれた煉瓦であることを示す複弁の桜の刻印の端があるではありませんか!!

目隠しのように作られた土塁を右側に反時計回りで回り込むと、以前立っていた海上自衛隊の通信施設の建物は取り壊されて更地になっています。周辺は高い樹木は無く草はしっかり刈りこまれていて、実に空がのびのびと気持ちの良い青空が広がっています。この好天が災いして、施設の写真は陰影が強く写真を撮るのに一苦労でした。

最後に砲座の写真を一枚!!

続く