千代ケ崎砲台は、戦後いったん民間に払い下げられた後、その一部を国が買い戻して海上自衛隊の通信施設が建設されました。

現在施設は撤去されていますが、防衛施設庁の管理下にあり一般公開はされていませんので、この記事をお読みになられて「よし行ってみるか!」と思われても、残念ながら中に立ち入ることはできません。

 

横須賀市教育委員会さんでは、今後見学会の開催を計画されるようなので、時々横須賀市のHPを覗いてみていただければと思います。

 

前回書き忘れましたが、ある痕跡を探して柵門に至る軍道の海岸沿いの入口付近を詳細に観察しましたが、なんの痕跡も見つけられませんでした。

何を探したかというと、今までの経験から軍道の入り口にはコンクリート製、あるいは木造の歩哨所があったのではと考えたからです。

さて、時空を柵門入口まで戻しましょう。

まずは上の地図をご覧ください。

上部中央に柵門があり、門を入ると正面に土塁が築かれています。ここの大部分の地上施設は、山を崩して切土で造られていますが、柵門正面の土塁盛土で造られています。

土塁を地図上で下に進むと、その先で分岐して左に緩やかに坂を下って露天塁道へとつながり、右手に進んで坂を上ると砲座の上の空間に登ることができます。(次の写真)

 今回は、土塁を地図上の上から左に回り込んで進みます。緩やかな下りの坂道を進むと、土塁を右から巡ってきた道と合流し、露天塁道に繋がっています。

 

さて、地図から離れて実際の塁道に降り立ち、進んでいきましょう。右の写真をご覧ください。

右にカーブしながら下っていくと、その先で左に大きな弧を描いて、露天塁道が続いています。

カーブの終わる手前左手に、第三砲座に附属する第三弾薬庫に繋がる交通路があります。

交通路の天井はアーチを描いていて入口は煉瓦積みで施工されているものの、内部のアーチ部分はコンクリート造になっています。

 さらにこの交通路はカーブしている塁道に対して斜めに開口部が切られているため、アーチは側壁に対して渦を巻くように積まれる斜架拱(ねじりまんぽ)で積まれています。

斜架拱は、関西、特に岐阜、京都、大阪などに多く見られる技法で、関東では、旧信越本線の横川⇔軽井沢間の隧道二か所で使用例が知られているのみで、ここ千代ケ崎砲台に用いられていたことは大発見です。千代ケ崎にはこの他二か所の合計三か所に斜架拱が用いられています。

斜架拱については、過去に書いたこちらの記事をご覧ください。

⇒ねじりまんぽ1 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2015-11-20

⇒ねじりまんぽ2 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2015-12-04

⇒ねじりまんぽ3 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2015-12-31

⇒その他関連記事 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2016-07-10


この交通路の少し先の右手に、雨水を貯める濾過槽と貯水槽が並んでいます。雨水は塁道の端に埋め込まれた排水路を流れてくると、貯水槽に誘導され礫や砂でろ過されて、その隣の貯水槽に貯まります。排水路には砂が充填されていて、流路にもろ過機能をもたせていました。

排水は二系統あり、油分のある砲座や弾薬庫の排水(汚水)は、生活用水に使用する雨水の流路とは別系統の流路で排水されるように設計されています。

濾過槽・貯水槽の対面側には、第三棲息掩蔽部があります。

側壁から煉瓦一個分程度後退させて設けられており、全面に焼過煉瓦が使用され、雨水の侵入を防いでいます。次の写真は全く同じつくりの第一棲息掩蔽部のものです。

中央の出入り口と左右の窓の上部は小さなアーチを描いており、オランダ積みで煉瓦が積まれています。内部に入ると天井部分の煉瓦積みは入口のみで、その奥はコンクリートで施工されている点は、前述の交通路と同じで、非常に興味深いところです。

この地点から塁道の前方にを見渡すと、露天空間と隧道が交互に続いていて、光の届く明るい露天部分と、暗い隧道部分が織り成す明暗は、なんとも不思議な雰囲気を醸し出しています。

この景色を見た瞬間、北海道をM38君で駆け抜けたときに立ち寄った帯広の北海道ホテルのロビーに隣接するチャペルを連想してしまいました。雰囲気がよく似ていますね。

露天塁道の被覆壁は、柵門の石垣と同じく房州石で積まれています。

次の写真は北海道ホテルのチャペルの様子です。


東京湾要塞は、その建設時期により依拠する建設要領から、明治10年代、明治20年代前半、明治20年代後半に分類されます。

明治10年代に類する猿島砲台の棲息掩蔽部が次の写真です。

わかりづらい写真しかなかったのですが、2013年に猿島を訪問した時のものです。

石造りの側壁からやや突出するように棲息掩蔽部の入り口が作られ、煉瓦はフランス積みになっています。

次の写真は夏島砲台の棲息掩蔽部ですが、こちらは明治20年代前半に類され、棲息掩蔽部は、石積みの側壁から風雨を避けるため、煉瓦でアーチを造って入口と窓は大きく後退しています。またこの時期の特徴は、中央の入り口と左右の窓の上部はアーチではなく横に一本石を渡して造られています。煉瓦は一部イギリス積みが用いられているところもありますが、大部分はオランダ積みです。煉瓦の積み方については、以下の記事をご参照ください。

https://main.renga.tokyo/knowledge.html

そしてここ千代ケ崎砲台の特徴は、明治20年代後半に類されます。

第三棲息掩蔽部は、海上自衛隊の施設の痕跡で、アルミのドアが付けられて、入ることはできません。次の写真は第一棲息掩蔽部のもので、比較のため改めて掲出しました。
後期の特徴は、上記の夏島砲台のように入口が大きく後退せず、わずか煉瓦一個分セットバックしている程度ですが、全面に焼き過ぎ煉瓦を使用して雨や湿気からの対候性を増しています。

第三棲息掩蔽部のすぐ先で隧道が始まります。隧道の入り口は、対候性を考慮して、焼過煉瓦をほぼ45度に配して積まれています。この二等辺三角形を描くように焼過煉瓦を用いられるのは、隧道の入り口部分だけではなく、濾過槽の入り口など、露天部分に面する様々な部位に用いられています。

 

隧道の中央部分に、第三砲台と第二砲台を結ぶ高塁道に繋がる交通路と、第二弾薬庫があります。

弾薬庫は前室と後室に分かれていて、後室には交通路から入るようになっています。

前室と後室の間には細い通路状の点灯室があり、前室、後室それぞれに二か所窓が開いていて、その窓越しにオイルランプで灯りをとっていました。火気厳禁の火薬を扱うことから設けられた工夫ですね。

次の写真は、前後の弾薬庫の間にある点灯室です。

 

さらに点灯窓が次の写真です。後室ろから露天隧道を覗いたところです。点灯窓が3つあるとはいえ、さぞかし暗かったことでしょう。壁や天井が白く塗られているのは、灯りを反射して少しでも明るくするためでしょう。棲息掩蔽部はこのように白くは塗られていません。

後室の天井には二か所に丸い穴が開いていて、真下にも数十センチの深さで丸く穴が開いています。ここは揚弾井と呼ばれ、揚弾機が据え付けられていて、ここから砲弾を引き上げて、砲座に運ばれたようです。

次の写真は、床に穿たれて凹部分です。

次の写真は、天井に穿たれた穴を見上げたところです。

穴の先に見えている一文字のようなものは、揚弾機の痕跡です。

次の写真が高塁道(弾薬庫の上)から揚弾井を覗いたところです。

天井部分には、揚弾機を据え付けた跡が残っていますが、終戦直後の混乱期に、金属性のものはみな持ち去られたようで、跡が残るのみです。

高塁道を揚弾井を越えて先に進むと、砲座に出られるようになっています。砲座は2つ並列に並んでいるものが第一砲座から第三砲座まで3か所、計6門の28糎榴弾砲が配備されていました。

 さて、砲座の様子は後回しにして、塁道に戻ります。

第二弾薬庫のある隧道を抜けて露天部分に出ると、第二棲息掩蔽部があります。ここの作りは、手前にあった第三棲息掩蔽部と全く同じ造りになっています。

第二棲息掩蔽部に入って内部から入り口を振り返ると、左右の下側に換気用の吸気口があいています。入口側から入ってきた空気は、一番奥の天井部分に地上に続くスリットが設けられて排気されています。特にファンなどを設けた強制排気ではなく、負圧を利用した自然排気です。一昔前の電車の天井についたベンチレーターと同じで、地上部に顔をだした排気口に風が吹くと排気口内に負圧が生じて、内部の空気が自然に吸い出されます。海に近く、風が止むことは少ない土地柄から、これで十分だったのでしょう。

次の写真は、地上部部にある排気口です。実際は上部が地面に顔を出しているだけです。

さらに二つ目の隧道に入ると、左手には第一弾薬庫があります。ここも第二弾薬庫と造りは同じです。さらに進むと露天部分に出て第一棲息掩蔽部がありますが、ここも第三、第二と同じ造りです。

注目すべきは、ここの吸気口に単弁の桜の刻印が残されていました。

入口の井戸に残っていた複弁の刻印と同じく小菅集治監で焼かれた煉瓦です。残念なが単弁と複弁の違いは判っていません。

第一棲息掩蔽部の先は、右翼観測所・陸正面砲台に続く隧道となり、緩やかなカーブを描いて上り坂になっています。わずか数十メートルとはいえ、カーブしながらの上り坂のトンネルを穿つというのは、高度な技術があったのですね。

この隧道の出口手前に第一貯水槽と濾過槽があります。

この濾過槽のアーチも隧道がカーブしていることから、斜架拱で積まれています。

さらに隧道の出口部分も斜架拱で積まれています。

ここで起拱角(煉瓦の積まれたねじりの角度)と隧道の斜架角(交差する角度)がどういう関係になっているのでしょうか。

斜架角をθ、起拱角をβとすると、以前にもアップしましたが、次の関係が成り立ちます。

tanβ=2/(πtanθ)

右翼観測所方面出口の斜架角は、地図から読み取ると69度(図の59度は誤り )です。

上の式にこの角度を当てはめると、起拱角の理論値は、13.7度となります。

実際の起拱角をスマホの傾斜計で図ると18.9度となりますので、理論値よりもねじれが大きいことが判ります。

 

もう一か所、最初に戻って第三砲台に繋がる交通路の斜架拱について検証してみましょう。

斜架角は、地図から読み取ると、78.5度です。

上の式に当てはめると、起拱角の理論値は7.4度となります。

スマホの傾斜計は13.3度を示していますから、こちらも理論値よりもねじれが大きいことが判ります。

さてさて、残るは砲台上部の様子ですが、できるだけ急いでアップしますね。