煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク12 上野・荒川編5

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都電を荒川遊園地前電停で降りると、バラの咲き乱れる遊歩道をあらかわ遊園の方へと向かう。

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思わず立ち止まってバラを鑑賞したくなるような見事さだ。

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芳しいバラの香りを楽しみながらしばし歩くと、懐かしい都電6000形、あだ名も一球さんが出迎えてくれる。

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さて、あらかわ遊園は都内で唯一の区立の遊園地だが、その歴史を知る人は意外と少ない。

1922年(大正11年)5月に民営の遊園地として開園し、戦前は大変賑わったが、戦時中は閉鎖されると高射砲陣地となった。
戦後1950年(昭和25年)に区立あらかわ遊園として再出発する。

それでは1922年に開園する以前は何だったのだろうか?

実は煉瓦工場だったのである。 明治から大正にかけて、荒川区の地場産業といえば、煉瓦製造だった。

煉瓦を作るのに適した土であったことに加えて、製品を船で簡単に運べることから、隅田川沿岸には多くの煉瓦工場が造られた。

1872年(明治5年)に創業した広岡煉瓦工場は、1921年(大正10年)12月に漏電による火災で工場を焼失してしまう。
当時の経営者だった広岡幾次郎は、工場の敷地を含めた2万坪の土地を人々のための行楽地として整備し、あらかわ遊園を開園したという。

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国土変遷アーカイブ 日本陸軍 1936年(昭和11年)6月11日撮影 B29-C2-45

上の写真が1936年(昭和11年)のあらかわ遊園の航空写真である。

次に現代の写真と比較してみよう。

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国土変遷アーカイブ 2007年(平成19年)4月30日撮影 CKT20071-C11-49

ご注目頂きたいのは、南側から東側にかけて赤い部分が、昔は遊園地内だったのが、宅地に変わっている点である。

昔あらかわ遊園の一部が宅地として売却されたため、このようになっているのであるが、赤い線の外縁部分の道路は、次のようになっている。

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この煉瓦の塀は、1922年のあらかわ遊園開園時に、煉瓦工場に残っていた煉瓦を使って造られたものといわれている。

写真を見ると、色々な色の煉瓦があることなどから煉瓦の品質は不均一で、製品としての煉瓦で作られたものではなく、工場に残された煉瓦を流用して作られたということが、窺える。

この煉瓦塀は、現在でも地域の人々に大切にされている。

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