煉瓦研究ネットワーク東京 新永間市外線高架橋1

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20141213日、第7回の煉瓦研究会のフィールドワークが行われた。

この日は、神奈川のメンバーを迎え、総勢20名を超える研究会となった。

新橋駅に集合すると東京駅を経由して、御茶ノ水の紅梅河岸までの市街線高架橋を観察して回った。

 

私は残念ながら当日参加できなかったため、一週間後の20日に同じコースをたどって記しているため、13日の様子とは若干違う点があることをお許しいただきたい。

 

1.新永間市街線高架橋の概要

1889年(明治22年)に新橋、神戸間が開通した官設鉄道と、1883年に上野、熊谷間が開通した私鉄の日本鉄道を結ぶ高架鉄道の建設が、東京市区改正計画により立案されると、1896年(明治29年)の第9回帝国議会において、中央停車場(現東京駅)の建設が決まった。

旧新橋駅から東京、上野と線路を伸ばすには、銀座を縦断しなければならず、用地買収等困難が予想されたため、旧新橋駅手前の現在の浜松町駅付近から西寄りにコースをとり、外堀沿いを北上する現在のコースが採られることとなった。

 

この市街線高架鉄道の計画をしたのが、1887年(明治20年)に来日して九州鉄道や日本鉄道の顧問を歴任したドイツ人のヘルマン・ルムシュッテルである。

彼はベルリン市街高架鉄道をモデルに煉瓦造のアーチ式高架鉄道を提案した。

ベルリン高架鉄道.jpg

上の写真のまるで新橋駅前のSL広場のような場所は、ベルリン市街高架鉄道の写真である。

この写真は、MMさんよりご提供いただいた。欠円式のアーチは、焼過煉瓦で縁どられ、とてもモダンな印象を受ける。

残念ながらこの時代の日本には、本格的な高架鉄道建設のノウハウを持たなかったことから、1898年(明治31年)にベルリン市街高架鉄道の建設に携わったドイツ人技師のフランツ・バルツァーが技術顧問として招聘された。

 

バルツァーは1903年(明治36年)に帰国するまで、現在の東京の鉄道網の基礎となる提案を行っている。

 

バルツァーの描いた東京の路線網は、なんと数十年を経て1972年(昭和45年)に総武線が東京駅地下ホームに乗り入れたことによって完成する。

 

バルツァーは、帰国後「東京の高架鉄道」という論文を表し、路線の設定、高架橋設計のコンセプト、さらにはデザインまで言及しているという。

是非とも読んでみたいものだ。

 

市街線高架橋は、1900年(明治33年)に浜松町付近で建設が始まると、1909年(明治42年)に浜松町⇔烏森(現新橋駅)が開通した。
さらに同年9月までに有楽町と東京駅の間に呉服橋仮停車場が開業して一応の完成をみる。

 

当時東新橋界隈を『新銭座』、大手町付近を永楽町と称したことから『新永間市街線高架橋』と呼ぶ。さらに架道橋と架道橋の間をそれぞれの地名を付けて一例をあげると『原助橋架道橋』等と呼んでいる。

 

高架橋のアーチは径間12m8mを基本とし、内部空間の有効利用や基礎の負担軽減のため、大部分が欠円アーチを用いているが、内山下橋高架橋に一部半円アーチが用いられている。新永間市街線高架橋の中で半円アーチが見られるのは、ここの二連のみである。

 

◆欠円アーチの例

DVC00061.JPG

 

◆半円アーチの例

半円アーチ.jpg

高架線の縦方向に通行を確保するため、中心部に2mの通路が設けられているが、私が確認した縦貫通路は、合掌式アーチが用いられている。

 

合掌式アーチの縦貫通路

縦貫通路内部.jpg

 

 

高架橋は、随所で道路と交差しているが、大通りとの交差では3径間ゲルバー鉄桁橋が用いられている。

中央径間を車道、左右の径間を歩道として利用されていて、地名をとり「原助橋架道橋」等と命名されている。

4常盤橋.jpg
(上の写真はちょうど良いものがなかったので、ほぼ同じ形式の常盤橋付近の架道橋である)

何れの架道橋の橋台も煉瓦が小口積みになっている(下の写真参照)が、その表面は非常になめらかで凹凸が少ないことから、鉄筋コンクリート造あるいは石造りの表面に15mmの煉瓦タイルを貼ったものではないかと筆者は推測する。

5内幸橋架道橋.jpg

 

高架橋の基礎は、当時一般的だった松杭を用いている。

長さ3間、あるいは6間を基本とし、地盤の悪い場所によっては9間の松杭が用いられたようだ。

 

新橋駅南の第一京浜国道以南は残念ながら取り壊されて、現在では見ることはできない。

第一京浜国道の架道橋から東京駅までの煉瓦造の高架橋を『装飾』の観点からみると、次の3区間に分けることが出来る。

 

◆第一区間 第一京浜の架道橋から幸橋架道橋(第一京浜から第一ホテル前)

 アーチとアーチの間に煉瓦で造られたメダリオンが埋め込まれている

 ただし、大部分が後に煉瓦タイルを貼られている(関東大震災で火災により被災した修復痕と推定)ため、残っているのは数か所に限られる

 

◆第二区間 幸橋架道橋から第一有楽橋架道橋(第一ホテル前から晴海通り)

 アーチとアーチの間に小アーチを設け、アーチ部分を中心に焼過煉瓦を効果的に用いて装飾されている

 

◆第三区間 第一有楽橋架道橋から東京駅(晴海通りから東京駅)

 第一区間と同様にアーチとアーチの間にメダリオンが埋め込まれている。

 第一区間と違う点は、メダリオンのリングが石(御影石であろうか?) で造られている点である。

 

今回はこの区間ごとに、その特徴など交えながら煉瓦について述べていきたい。

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